私の東京物語 第7話 国会議事堂と60年安保デモ 小榑雅章

2017/ 08/ 19
                 
 暮しの手帖社に入社した1960年の5
月6月は、いわゆる60年安保闘争の真
っただ中で、連日国会はデモに取り囲ま
れていた。デモに参加した人は連日30
万人と報道され、日本中が騒ぎの渦中
におかれた。
 暮しの手帖の中でも、テレビはつけっ
ぱなしにされ、花森さんも編集部のみん
なもテレビを見ていた。大学の後輩たち
や社会人になった同級生たちも、仕事を
さぼってデモに参加し、お前も来い、と
誘いにきた。行きたい。行くべきだ。こ
んな安保改定など、許してはならない。
 勇を鼓して、花森さんのところに行き、
「デモに行きたいです。行かせてくださ
い」と願い出た。
 花森さんは「まあそこへ座れ」と言っ
た。
 「気持ちはよくわかる。だがな、君はい
まどこに勤めている。暮しの手帖の記者
だ。編集者だ。ジャーナリストなんだ。ジ
ャーナリストの武器は何だ、ペンだぞ。持
つべきものはプラカードではない、ペン
だ。戦うのは文章なんだ。君の今やるべ
きことは、ペンを磨くことだ。文章を勉強
することだ。人を動かす、国を変えさせる、
ペンにはその力がある」そう言ってから、
「暮しの手帖はなぜ広告を取らないか知
っているか」と聞かれた。
 「商品テストをするので、企業に遠慮を
しないためです」と模範解答を言うと、
「もちろん、それもある。でもそれは後づ
けだ。そう思われているが、本当に戦う
べきは国だ。国家権力だ。それが本心
だ。デモなんかに行くな。文章を磨け」
 結局、デモには行かなかった。
(東京新聞2017年8月14日掲載)
                 
        

私の東京物語 第6話 暮しの手帖に入社  小榑雅章

2017/ 08/ 18
                 
 1960年(昭和35年)に大学を卒業
して、雑誌の暮しの手帖編集部に入社し
た。当時、暮しの手帖社は中央区銀座
西8丁目4番地にあり、銀座の一番新橋
寄りのはずれの日吉ビルの3階にあった。
 すぐ前に汐留川があり、私の入社した
のは、この川を埋め立てて高速道路を建
設中の時だった。
 創始者の花森安治編集長は、事務所
の場所は「銀座」にこだわった。雑誌が
全国に発信するには、銀座というブラン
ド力を利用すべきだと考えていた。その
慧眼もあり、花森さんの類まれな発信力
のおかげで、私の入社した時には、暮し
の手帖は発行部数70万の大雑誌にな
っていた。
 去年はNHKの朝ドラで「暮しの手帖」
のもう一人の創始者大橋鎭子さんを主人
公にした「とと姉ちゃん」が放送されたお
かげで、改めて脚光を浴びたが、かつて
の暮しの手帖のファンが、いまでも根強く
全国にたくさんいてくださることを再認識
してうれしかった。
 私は自宅の新橋5丁目から、毎朝徒
歩で通勤した。わずか7、8分の楽な道
筋は、かつて通った桜田小学校のわきを
ぬけ、新橋駅前を過ぎれば、もうすぐに
銀座で、会社に着く。
 新橋駅前は、戦後の焼け野原に出来
た日本1の闇市だった。入社当時は、も
う闇市のような露店街ではなくなってい
たが、小さな飲み屋や焼き鳥屋やパチン
コ店がぎっしりつまったカスバのような繁
華街になっていた。その後、ニュー新橋
ビルになって近代的に生まれ変わった
のだが、中身は焼き鳥の匂いが立ち込
め、いまもかつての雰囲気が残ってい
る。
                 
        

第2章  政党政治が未成熟のまま消えた・・・              政党内閣を阻む元勲と超然内閣    星野進保

2017/ 08/ 18
                 
まず、政党政治の成熟化が何故つぶれたかを追ってみましょう。
帝国憲法は、すでに見てきたように、天皇大権を議会、政府、司法などの国家機関がそれぞれ、その責任を分担して協賛、輔弼する膨大な組織を設定しました。総理大臣の規程は憲法にはなく、内閣官制にありますが、閣僚の任命権も内閣の指揮権もありません。国務について、天皇が法律を裁可し執行を命じ、文武官の任免も行います。誰を首相にするか(大命降下)のような重要案件については相談相手が必要になります。そこで登場するのが元勲(現役引退した場合は元老と呼ぶ)です。明治維新を達成させた大功労者達です。憲法制定時の元勲には、旧長州藩の伊藤博文、井上馨、山縣有朋、山田顕義、旧薩摩藩の黒田清隆、西郷従道、大山巌の7名が列せられました。その後、松方正義(明治30年に)、桂太郎(明治45年に)、西園寺公望(大正6年に)が加えられました。
元勲がこの膨大な組織を運営するキーマンになったのには、他を屈する政治力があり、天皇の信任が厚かったことがあります。この元勲達が帝国憲法のタテ割り分任組織を統合する調整役となりました。憲法制定時の黒田内閣(1889年)から第三次桂内閣(1913年)の四半世紀は、途中に大隈・板垣連合政党内閣の4ヶ月余が入りますが、元勲達の間で首相がタライ回しにされました。大命降下される首相候補をきめ、天皇に奏請したのも元勲達です。
この元勲達は明治創業以来いわゆる薩摩・長州藩閥政権の中枢を昇りつめて来た人達で、超然内閣の推進者達です。「政府は常に一定の政策を取り、超然、政党の外に立ち、至誠志中の道に居らざるべからず。」(憲法発布時の黒田首相発言)つまり、日本を強大国家にするには不偏不党の公正な政治と政策の連続性が不可欠であり、国民の一部しか代表してない政党に依拠すれば公正な政治が出来なくなり、国は滅びる。したがって、政府は政党から超然とした内閣、超然内閣でなければならない、というのです。
政党の存在を認める伊藤でも、天皇は政党の外に立つもので、天皇を輔弼する宰相も同様であり、既に一国の機軸が定まり、政治をして公議の府に拠らしめるのには、政党はその力を充分に養成する必要がある、といっています。政党ぎらいの山縣は、政党政府の出現を阻むために、軍部大臣現役武官制などで、警戒を怠りませんでした。これらの元勲達が作った内閣が超然内閣といわれるものです。
議会選挙で多数を占めた政党が政権を担当するという政党内閣制とは対立するものでした。憲法の認めた衆議院選挙で政権がきまる政党内閣制を推進する民権派は、2度にわたる護憲運動で天皇の側近として政治を動かす元勲たちの藩閥超然内閣への反対や、軍による軍部大臣現役武官制の廃止などを具体的目標として掲げました。
1898年(明治31年)、伊藤が自ら模範的政党づくりをめざして首相を辞任しました。そしてその後継として、大隈(首相)板垣(内務大臣)が連立する日本初めての政党内閣を推せんしました。いわゆる隈板内閣が発足しました。これに驚いた黒田枢密院議長などが、隈板内閣が政党内閣を作るかもしれないとの危惧を藩閥首脳達に広めました。
隈板内閣はわずか4ヶ月で内部の分裂によって終わりました。そのあとの首相となった山縣は、1900年(明治33年)軍部大臣現役制を定め、陸軍大臣の単独辞職で内閣をつぶしたり、陸軍が大臣を出さないことで組閣を不可能にできる手段を、確保しました。片や、伊藤は、この同じ年に、模範的な政党をめざして立憲政友会の総裁になりました。
                 
        

私の東京物語 第5話 母と靖国神社   小榑雅章

2017/ 08/ 17
                 
終戦になっても、父親は帰ってこなか
った。母は何度も問い合わせに行った
が、やがて、来たのは戦死広報だった。
レイテ島で「二十年八月一日に戦死」
と書いてあった。あと半月前に終戦にな
っていれば、死ななくて済んだのにと母
親は怒っていた。
送られてきた遺骨箱には遺骨はなく、
白木に小榑上等兵の霊と書かれた板切
れ1枚が入っていただけだった。
それでも母親は、私たち子どもを連れ
て、毎年8月には父親が祀られていると
いう九段の靖国神社に参拝に出かけて
いった。母は私たちに「靖国は、大将も
二等兵も、お国のために殉じたものは、
みな平等に神として祀られている」と話し
ていた。
しかしある時から、ぷっつりと靖国神社
に行かなくなった。A級戦犯の東条英機
たちの恩給は二等兵の十倍ももらってい
るという新聞をみてからだ。みんな平等
ではなかったのか。死んでからも兵隊は
将軍の十分の一の扱いではお父さんは
可哀そうだ。靖国なんかに置いてはおけ
ない。
どうしてお父さんが戦争で死ななけれ
ばならなかったのか、自分たち家族がこ
んな苦しい目に遭わなければならなかっ
たのか、あのつらいレイテのジャングル
で苦しませたのは、誰だったのか、あの
戦犯の連中ではなかったのか。その連
中がお父さんの十倍も恩給をもらい、え
らそうに特別待遇で祀られているなんて
おかしい。靖国神社なんかに絶対に参
拝に行かない。
焼けた交番に住み、リヤカーを引いて
必死に生きてきた庶民の張り裂けるよ
うな怒りだった。
(東京新聞2017年8月10日掲載)



                 
        

私の東京物語 第4話 バラックって何? 小榑雅章

2017/ 08/ 17
                 
一九四五昭和二十年)八月十五日、福生第
1小学校二年生となって校庭で整列し、ラジオ
から流れる終戦の玉音放送を聞いた。言葉が
難しいのと雑音で何のことか分からなかったが、
先生方がうなだれて泣いているのを見て、戦争
に負けたのだと思った。
翌年の3月、母が引き取りに来て、また新橋
に戻った。母は、手狭な交番を引き払って、第
1京浜に面した新橋5丁目にバラックを建てて
移り住んでいた。人々や物の移動が活発にな
り、運送業は盛んになっていたので大通りに
面したところをえらんだのだ。
若い人にバラックというと、それは何ですか
と聞かれる。辞書を引くと、「粗造の仮小屋」と
ある。その通りだが、これでは意が通じない。
仮小屋を作りたくて作ったのではない。東京中
駆け巡っても、木材も屋根瓦もガラスも手に入
らないから、お金があっても本建築など建てよ
うもない。
バラックの多くが、焼跡で集めた焼け焦げた
木材やトタン板で作られている。だから我が家
は隙間だらけで、雨もりはするし風は吹き抜け
て寒かった。とにかく食べ物も着るものも住む
ところも、何もない貧しい時代だった。
桜田小学校に戻って、理科の時間だったか、
自宅から材料を持ち寄って料理を作る時間が
あった。同級生に有名な洋食屋の娘さんがい
て、揚げ油やパン粉を用意して理科室でカキフ
ライを作ってくれた。それを食べた時に、世の中
にこんなうまいものがあるのかと、ひっくり返る
ほど感激した。だいたい、フライという食べ物も
食べたことがなかった。カキフライは、今でも1
番大好きな食べ物である。
(東京新聞2017年8月9日掲載)

                 
        

私の東京物語 第3話 住まいは交番 小榑雅章

2017/ 08/ 14
                 
 焼け跡の火は収まっていたが、至ると
ころに燻る煙が上がっていた。我が家が
あったあたりに戻ったが、一面焼け野原
で、愛宕山の下まで、ほとんど遮るもの
がなく見通せた。その日から、住むところ
がなくなった。私は都下の福生町にある
母の長兄の家に預けられた。しかし、母
はすぐに新橋に戻っていった。
 父が出征したあとは、お菓子屋で食べ
ていけるだろうと言っていたが、主食もろ
くにないのに菓子どころでなくなり、商売
できなくなっていた。
 母は、父がやっていた運送屋を引き
継いだ。運送と言っても、トラックもガソリ
ンもないから、すべて人力である。貨物
専門の汐留駅が近いので、会社や商店
からの駅出しや、駅からの引き取り、配
達という仕事は結構あった。母は、何人
かの年配者を雇って、リヤカーや自転車
で荷物を運んでいた。
 当時の自転車は、きゃしゃで軽い今の
と違って頑丈で重い。その自転車にリヤ
カーを接続し、荷物を積んで引っ張るの
だから、大の男でも扱いが大変だった。
しかし、母は強かった。重い自転車にリ
ヤカーをつけて荷物を載せて走り回っ
た。そんな女性は他には絶対にいなか
った。子どもたちを養うのに必死だった
のだ。
 母の住まい兼運送屋は、なんと新橋5
丁目交番だった。空襲で交番も焼けて
捨て置かれていたが、コンクリート造りな
ので外観は残っており、雨露はしのげ
る。そこへ入り込んで、母は運送屋をや
っていた。すごい人だ。
(東京新聞2017年8月8日掲載)
                 
        

私の東京物語 第2話 大空襲の夜   小榑雅章

2017/ 08/ 13
                 
 一九四五(昭和二十)年三月九日、桜
田国民学校一年生の私は、寝る前に枕
元に教科書をつめたランドセルと防空頭
巾を置き、いつ空襲が来てもいいように、
服を着たまま寝ていた。
 姉と弟は、母の親せきの家に疎開して
いたが、私だけは母の下に残されてい
た。
夜中、母に、すぐに防空壕に行く、と起こ
されこされた。敵機襲来のサイレンが鳴
っている。防空壕は町内共用で、家から
少し離れた大通りの歩道の1部を掘って
覆いをした上に土をかぶせた壕で、十人
ぐらいは入れる空間がある。その夜、蓋
を開けて階段を下りて暗い中に入ると、
五、六人の人がいた。母は、ここでおと
なしく待っているんだよ、と出て行ってし
まった。
しばらくしてあわただしく戻ってきた母
に、連れ出されて急いで家に戻ると、家
はすでに激しく燃え始めていた。その前
に、いっぱい荷物を積んだリヤカーがあ
り、それを母親が引っ張り、私に後ろを
押せと叫んでいる。お家が燃えちゃう、
燃えちゃうよ、と泣きわめくが、早く逃げ
るんだ、しっかり押せ、と叱咤される。し
かし、荷物が重くて動かない。仕方なく
母は、上の荷物を放り出し、やっと動き
出した。火の粉が飛んできて熱くてたま
らない。
家々はつぎつぎに焼けて炎が上がっ
ている。風が強い。だがその風上に向か
って逃げるしかない。息が出来ない。苦
しいよ、息が出来ないよー、と泣きながら
押したが、あの重いリヤカーを引っ張っ
た母は、まさに鬼だった。どこまで逃げた
か分からない。夜がしらじらと空けて、母
はリヤカーを停めた。防空頭巾も服も、
火の粉で焼け焦げていた。子ども心に、
助かったと思った。防空壕にいた人は蒸
し焼きなって亡くなったと聞いた。
(東京新聞2017年8月7日掲載)