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星野進保さん1周忌と「土地・人民 日本の歴史」

2019/ 01/ 15
                 
昨年の1月16日に、向社会性研究所代表の星野進保さんが亡くなられて、明日で1年になります。
星野さんは昭和8年(1933年)東京都生まれ。昭和33年(1958年)東京大学経済学部を卒業して、経済企画庁(現内閣府)に入り、国土庁計画・調整局長、経済企画庁総合計画局長、調整局長、経済企画事務次官を歴任して退官。
この経歴を見ていただければわかるように、戦後日本の高度成長期の国家計画にずっとかかわってこられました。その後、総合研究開発機構(NIRA)理事長を10年勤め、2000年4月にこの向社会性研究所を創めました。それから18年間、向社会性研究所代表として活動を続けてこられましたが、昨年亡くなられました。

このブログ『向社会性研究所へようこそ』を始めたのは2006年の5月です。星野さんも、時に応じて執筆をしてきましたが、それから10年後、亡くなる2年前の2016年の年初から「土地・人民 日本の歴史」という連載を始めました。
それは、どういう意図であったのか。自分として、わかったつもりでいたが、その根本の日本という国の成り立ちが、よくわかっていなかった。それで国家の発展について議論し、国家計画などえらそうなことをやってきたが、やはり足元のこと、根本のことを理解していないと、見えるものも見えない、道を過つ、といって勉強し直したのでした。
いま世界中で民主主義、資本主義の危機だと言われ、その存在価値、意義が問われています。まるでそれを見通したように、星野さんは3年前に「敗戦後の民主主義を無邪気に受容した一人として、この民主主義がより良い日本と世界を育くむことを祈ります」と思いをこめて「土地・人民 日本の歴史」という連載を始めたのでした。以来、3年にわたり連載を続けておりますが、この星野さんの残された著述は、今こそ大きな意味を持っていると思います。
日本国とは何か、どういう統治をされ、経緯を辿っててきたのか、土地はどういう意味を持ってきたか、明治維新はどんな時代だったのか、太平洋戦争はなぜ起こり、なぜ負けたのか、戦後の奇跡的な復興、経済成長はなぜできたのか、星野さんはすべて勉強し直してまとめました。
2016年1月1日に掲載した「土地・人民 日本の歴史」第1回目を再掲させていただきます。この機会に、この連載を遡ってお読みいただけたら幸いです。
             *****
あけましておめでとうございます。
今年は「土地・人民 日本の歴史」という文章を、すこしずつ区切って連載をさせていただこうと思います。
素人の下手な作文です。ご笑覧ください。ありがとうございます。

まえがき
70歳を過ぎて、公用・雑事が少なくなり、自由な時間が多くなりました。かねてより、この日の来るのを待ち望んでいました。
しかし、いざとなると何をやりたいのか、はたと困りました。囲碁・将棋・マージャンなどの趣味はなく、ピアノ・謡曲などの習い事もしていない。今さらはじめようとしてもおそすぎる。そこで、たまたま思い出したのが、日本の歴史をきちんと学んでいないことでした。若い頃には目の前にある戦後日本経済を、経済計画や全国総合開発計画などの作成を通じて勉強させてもらったり、1990年代には旧共産主義諸国のソ連や中国などの市場経済への移り変わりに熱中しましたが、日本国の始まりから敗戦後の日本の歴史をきちんと勉強したことはありませんでした。高校でも大学でも、社会人になっても。
今こそ、本邦日本の歴史にとりくんでみようと思いました。あり余る時間を使って自分なりの日本史をみつけて、冥土の土産にしようと思いました。
古事記、日本書紀から始めて津田左右吉先生やその他諸先達の労作を、どうまとめるかの目標もなく読ませていただきました。この作文のほとんどが諸先生方の労作の私の勝手なつぎはぎかも知れません。
そんな中で、日本国の歴史の原点になると明確に目に見える形で浮かんできたのが、壬申の乱で馬上天下をとった天武天皇、その「公地公民制」でした。日本国の土地も人民もすべて天皇の所有、支配下にはいって、「班田収受」の機構の下、日本は一体的に動きはじめました。日本の土地は、天武天皇の一人占めから始まり、敗戦後、人民が国家の主権者となってはじめて土地が個人個人の所有となったのです。
公地公民がくずれ、土地の実効支配を誰がしたか。土地境界の争いを武力で裁定する武家が登場しましたが、結局は戦国時代という土地争奪戦に呑みこまれていきました。戦国時代を凍結して平和な争いのない社会を担保した徳川家康とその幕府は、土地利用の平和維持の方式としては一つの選択だったと思います。
一方、明治維新は「公地公民」にはもどれませんでした。世界はすでに農業時代から産業革命の時代に移っていたからです。殖産興業には成功しても、精神構造は公地公民的だったのでしょう。それが、明治維新をとてつもない方向へゆがめ、その賞味期限を縮めたのだと思います。
敗戦後の民主主義を無邪気に受容した一人として、この民主主義がより良い日本と世界を育くむことを祈ります。

星野 進保 

                 
        

平成最後の新年参賀に行ってきた    小榑雅章

2019/ 01/ 05
                 
1月2日、宮中一般参賀に行ってきました。初めての経験です。
報道によれば、この日の参賀者は約15万4800人、平成に入って最多を記録したそうです。
私は、その多くの参賀者の中の一人として何時間も待ちながら、みんなどういう気持ちで、辛抱強くこの長い行列にならんでいるのだろうと、考えていました。
外国人も少なからず並んでおり、若い人も多かったので、皇室に対する興味や、めったに見ることのできない皇居に入れる機会待っていたというのは、行列の中の会話を漏れ聞いて、理解していました。
ただ、最も感じたのは、4月末に退位される天皇陛下と皇后さまが、この一般参賀で国民の前に姿を見せられるのは、この日が最後だから、ぜひそのお姿を見ておきたい、という参賀者が多かったように思います。
正直に言えば、私もその一人でした。今朝思い立って、やってきました。そして私は、遠くから、今の陛下に心からご苦労様でした。ありがとうございましたと申し上げました。

正月参賀
   *上の写真は、公式の一般参賀の光景。一段高いところから撮っている。
   下は、参賀者からの視線の写真。実際には、みんなが一斉にスマホやカメラ
    で写そうとするので、お立ち台の皇室のみなさんの姿は全く見えない。、

この日、陛下は「本年が少しでも多くの人々にとり、良い年となるよう願っています。年頭にあたり、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」とあいさつされました。
退位を前にして、この「我が国と世界の人々の安寧と幸せ」の中に、万感の思いを込められたのだと思います。正直に言って、若いときの私は、天皇制は無くなった方がいいと思っていたほど、皇室については厳しい考え方を持っていました。
前にも書きましたが、私の父は一銭五厘の赤紙で召集され、一兵卒としてフィリピンのレイテで戦死をしました。母親は、戦争未亡人として4人の子供を必死に育てました。そして、苦労して苦労して46歳の若さで死にました。その辛苦のあり様を、私は身をもってともに体験してきました。何でこんなに国民を苦しめるバカな戦争をしたのだ、父親を返してくれ、母親の苦労を返してくれと叫び出したかったです。
このバカな戦争は、天皇陛下の御名の下に行われました。若い私は、天皇の戦争責任を考えざるを得ませんでした。
その後、天皇の人間宣言が行われ、平和憲法ができ、象徴天皇になりましたが、昭和天皇には呼称が変わっても、戦争責任の声がついて回りました。
いまの天皇は1933年12月23日のお生まれで85歳。終戦の1945年8月には12歳です。戦争の責任とは関係ありません。
その天皇が、先月のお誕生日に語られた次のお言葉を粛然と受け止めておりました。

  ・・・沖縄は,先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め,私は皇后と共に11回訪問を重ね,その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り,戦後50年,60年,70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず,戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵どしています。そして,戦後60年にサイパン島を,戦後70年にパラオのペリリュー島を,更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。・・・

陛下が、最後まで「先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず」とくりかえし述べられていることに、私は深く敬意を持つ者であります。だからこそ、思い立って一般参賀に並び、遠くから両陛下のご努力にお礼を申し上げました。ほんとうにご苦労をしていただきました。ありがとうございました。

                 
        

働き方改革よりも企業存立改革こそ必要  小榑雅章

2018/ 12/ 31
                 
 
大晦日である。平成30年も終わる。
 今年を振り返って、いろいろ言いたいことがあるが、気になって仕方がないのが、安倍政権が「最重要」と位置づけた「働き方改革」である。「働き方改革一括法案」は、6月29日、参院本会議で可決、成立したが、法律の施行は来年4月なので、いま企業はその対応で大わらわだ。
 働き方、つまり企業の従業員の働き方を改革しろ、というのだが、働き方のどこが問題で、何をどう改革しろというのか、よくわからない。
 まず官邸のHPをみると、働き方改革の意義(基本的考え方)として、「働き方改革こそが、労働生産性を改善するための最良の手段」と出ている。
「労働生産性を改善する」とは何か。
 要するに、人手不足だ。少子高齢化で労働不足だ。だから外国人労働者を入れなければならない。それと同時に、労働の生産性を上げなければならない。今働いている労働者が、同じ1時間の中で2割ずつ余分に生産すれば、2割生産性が上がる、そうすれば、労働力不足も解消できる、というご託宣だ。残業して労働時間を増やし、働かせればいいと思うが、それでは残業代を余分に払わなければならない。つまり生産性が上がらない。労働時間は同じに抑えて、より成果を上げさせろ、というのが労働生産性を上げよという働き方改革だ。
 もちろん、法律にはそんなふうに露骨には書いていない。健康経営だとか労務管理だとかカウンセリングだとか、もっともらしくいろいろ効率を上げる方法や手段がとられることになっているが、要するにあらゆる方法を講じて、従業員1人ずつの生産性を上げよ、というのが働き方改革である。
 これに対し、企業や労働側から、もっと反対の声が上がってもいいと思うのだが、その声は聞かれない。それどころか、企業はどうしたら生産性が上がるかで一生懸命だ。
 この法律の審議過程で、最大の問題点とされたのが、「高年収の一部専門職を労働時間規制から完全に外す、高度プロフェッショナル制度(高プロ)」の導入だった。
 規制から外れれば、企業は、働かせ過ぎを防ぐ仕組みである深夜・休日労働の割増賃金も払わなくてよくなる。政府は「多様な働き方の選択肢を提供し、専門職の方々に能力を発揮して頂く」などと審議で説明してきたが、野党は、「高プロ」は過労死を助長する懸念があるとして、法案からの削除を求めて、論議が続いた。
 この論議は、無駄だとは思わないが、木を見て森を見ていない論議だった。
 労働基準法は1947年に制定されたが、この法律の前身は戦前の工場法で、工場労働などの場合、働いた時間と成果は比例しやすいという考えに立つ。しかし現在は機械化も進み、またホワイトカラーが労働者の過半を占めており、時間と成果が比例しない仕事が増えている。労働生産性などで、何かが改善できるような事態ではない。いまは、AIの進展は著しく、どんどん人間のやるべき仕事を効率よくこなし始めている。つまり、人力より、AIのほうが生産性がずっと高いのである。
 いま考えなければならないのはAIに代えられるような仕事の労働生産性よりも、その企業の社会的使命、存立基盤が、時代に適合しているか、その企業の存続が今後も可能なのかどうかの判断、対応こそが緊急課題なのだ。社内にそういう人材がいるのか。誰が対応できるのか。少なくとも、いままでのぬるま湯の社内調整的昇進術で出世を遂げてきた経営トップでは、これからの激変する時代変化の対応は難しい。政府のご意向ごもっとも、働き方改革で何とかなると思っているようではだめなのである。
                 
        

ムラの人づき合いも生活環境も民主化    星野進保

2018/ 12/ 30
                 
 変ったことは、祖先伝来の土地を受継いだ農村にも都市化の波が押し寄せてきたことです。昭和40年代(1965~1975)に第2種兼業農家(農外所得の方が農業所得より多い農家)が大幅に増加しました。全農家数の約半数が第2種兼業農家になりました。この状況は今日まで続いています。昭和50年代に入って農業家計所得の約80%が農外所得になり今日までほゞ同じ水準で続いています。専業農家数は全農家数のほゞ12%になり、いうなれば農家世帯の多くの人が都市のサラリーマンのような通勤者になっているということです。すでに見てきた次三男達の都市世帯の日常生活のスタイルが農村の長男の世帯に入り込んできたのです。先に引用させてもらった河北新報の記事(1975年1月出版)を続けてみましょう。
「農林省農家経済調査」によりますと、昭和35年(1960)には農家の過半数が兼業化する線が0.7~1.0ha層だったのが、昭和40年(1965)には1.5~2.0ha層に上昇しました。そして昭和46年(1971)には第二種兼業農家が50%近くなってきて、専業農家の比率は15.2%、農業所得の農家所得に占める比率は35%と、農業専業農家数、農業所得の割合の大幅な減少が農家の中で起こっています。
 高度経済成長期の農村は大きく変わりました。その原動力は、農地改革を起点とした、農村の民主化で地主から解き放たれた自立経営をする農民のエネルギーでした。良きにつけ悪しきにつけ、“生産費および所得補償方式”の生産者米価を推し進めたのは、農協の指導や政治家の政治力もあったでしょうが、それを根っこで動かした、自立経営を求め、都市勤労世帯との所得均衡を求めた、祖先伝来の農地を受け継いだ長男達です。そして長男たちにエネルギーをしぼり出させた民主化こそが、日本の高度経済成長の平等な成果配分を実現させたのです。
兼業化も、米価決定方式と並んで農家家計の都市勤労世帯との所得均衡に貢献しました。農村から基幹労働力を二種兼業として放出したことは、その後の農業発展と関連してその評価はむずかしいと思いますが、所得均衡の観点からすれば、政府の目標とした自立農家の規模拡大が進まないと見込まれた以上、自立する農家経営者として賢明な選択だったと思います。他産業における所得水準、労働力不足の状況、農地法で固く守られた自作地からの農業収入をみながら、家族の労働力の一部を他産業の勤労者として兼業に出すことは、かっての地主の下での“耕作者”から、経営する経済人に脱皮した証しです。さらに重要なのは、兼業化に伴って村落での民主化が進んだことです。
土地保有の多少による序列はなくなった。日常生活は同じ様になってきているし、昔は地主や本家の世話になって食べていたのが、今では五反の農家でも、オヤジと息子が勤めに出て、日曜日に百姓をレジャーのように機械でできる。へたな専業農家より経済的に安定し気楽だといわれています。農家の間に土地保有の差別(例えばかっての五反百姓といった蔑視)がなくなったということです。(河北新報 むらの日本人)村落の民主化がとことん進んできているのです。
嫁としゅうとの関係が変わった。
「いまのおしゅうとさんは嫁時代には、おしゅうとさんに“はいはい”とつとめてきた。いまは嫁も外へ出て働くのが普通になっていますね。日中は近くの企業に出て行って、夕方に帰って(しゅうとに)顔を合わせるだけに(人間関係)がむずかしいことはなくなってきている。50歳代のお母さんは一番かわいそうですよ。おしゅうとさんが昔のようなしきたりをもち出すと、かわいい息子まで引っぱって逃げ出されかねない。いまだと、どこへ行っても若夫婦で暮らせるという自信が若い人達にはありますからね。」
家族の生活がバラバラになる。
「昔は大家族だったけど、いまは同じ家でも、子供部屋、老人部屋、若夫婦部屋とか、皆個室をもつようになった。昔は大きな部屋にベラッといたのにね。子供は学校から帰ってくると、自分の部屋に行って勉強しているとか、テレビを見てるとかしている。年寄は年寄で、若い人の邪魔になんねえようにコソッとしている。朝なんか勤めの人とか、学校へ行く子供とか、いろいろだからよほどの家でなけりゃ朝食一緒に食べられねえ。二回、三回バラバラに食べて行くてのが現状。家族一人一人別々になってきたこと、私、ハダで感じるんだね。」
むらと部落の仕組がこわれた。
「むらの中に農作業の“ユイ”というのがなくなったんやな。田植だとか稲刈りだと“ユイ”でやるべ。そっすると昔は家からおにぎりだ、赤飯だ、田んぼに持っていって、あぜ道で皆でおしゃべりしながら食べたのが、うんと人間関係を結びつけたんだね。今は機械だから、田植でも自分の家だけでよその人頼まなくても、3、4日で終わって、すぐ出稼ぎに行っちまうべ。そすっと、農村も悪いことばかし都市化してきたんだべけど、隣で何やってんのかわかんねえし、話し合いの場がなくなってきたんやね。」
地域集団から目的集団へ変る。
「部落の明治28年から続いた若者契約講などなくなって、葬儀の段取りなども葬儀屋がやり村の人が段取りすることもなくなった。片や養豚グループというようなのは、少しくらい離れていても経済面につながる勉強会なら間違いなく40~50人集まる。」
このような都市化の流れは、かつての地主・小作時代や“家”の制度を体験している年長者からみると、現代の農村は次のように写るようでもあります。
“農民の土地に対するとらえ方は、今までとはだんだん変ってきているんじゃないか。例えば農地解放なんかで苦労しないで手に入れた土地だから、今のように“虫食い”(農村のスプロール。例えばパチンコやホテルが農村に入りこむ)を許してしまっているんじゃないか。ハダに感じる変化は脱農家意識。それにカサカサした人間関係、が残念です。もう一つは家族の民主化、そして家督権という戸主権力の低下。また大家族の核家族化への変化です。農村でも今は、長男に嫁をもらえば別居しますからね。さらに生活の平均化がみられますね。これが一番のちがいでしょうね。田んぼは何町歩、山何町歩あるといったって、資産は別にして、毎日の生活ではある人もない人も全然変りないんです。”
                 
        

小金井市議会の基地辺野古移設中止意見書について   小榑雅章

2018/ 12/ 07
                 
東京の「小金井市議会が六日の本会議で、沖縄県宜野湾市の米軍普天間(ふてんま)飛行場の名護市辺野古(へのこ)への移設中止などを国に求める意見書案を可決した」(東京新聞)、という報道をみて、心が熱くなった。
そうなんだ、われわれ日本国民は、同じ声を上げなければならないのだ。
沖縄の人たちがあれほど反対し、選挙でも繰り返し明確に「ダメ、ノー」の民意が主張されているのに、政府はまったく聞く耳を持たない。安倍首相は「沖縄に寄り添う」というが、実際は「沖縄の人を踏みにじっている」のだ。全く腹立たしい限りだが、しかし、同じ日本国民として、その現状を黙過しているわれわれも、「沖縄の人たちの心情に寄り添わず、知らん顔をしている」のではないか。
昨日の小金井市議会の決議は、日本国中の「知らん顔」に、「声を上げよ、黙っていてはダメだ、辺野古埋め立てはやめてもらおう」という、意思の表明である。
私たち日本人は、先の戦争を知らない世代がほとんどになった。多くの兵士が戦死しただけでなく、どれほどたくさんの民間人も殺されたか、どんな悲惨なことが行われたかを知らされていない。学校でも教えられず、親も知らないから、沖縄がどれほど悲惨な目に合わされたかも知らない。
沖縄は日本国内では唯一、実弾の飛び交う地上戦の戦場になった。市民も主婦も老人も子供も、みんな銃弾を受けた。爆弾がさく裂し、火炎放射器で焼き殺された。
死者は、米国側は1万2520人だったが、日本側はその15倍、18万8136人が亡くなったという。このうち日本軍人・軍属は9万4千人。一般の住民は沖縄県民全体では12万2千人以上、県民の4人に1人が亡くなったといわれている。
その時も、日本国は沖縄の人々に特別つらい苦難を強いたのだ。日本が降伏し、やっと平和が戻ってきたというのに、その沖縄にはずっと基地があり続けている。そしてわれわれ本土に住む人間は、のうのうと平和な暮しを謳歌している。こんな不公平なことってあるのか。恥ずかしくないのか。こんどの小金井市議会の決議の意味は大きい。ぜひ日本中の心ある国民が共有してもらいたい。
                 
        

厖大な次・三男という大衆   星野進保

2018/ 11/ 30
                 
わが国の消費革新も、旧地主、貴族、財閥の金持が始めたものではなく、都市に新天地を求めた農村から出てきた厖大な次・三男という大衆が始めたものです。
次・三男にとって都会は、「自由」の天地でした。昔ながらの共同体の序列やしきたり、戸主・長男の支配する「家」のしばりから解き放たれたのです。自分の努力次第でわが城、核家族を豊かにしていける希望があったのです。この「自由」があるから、敗戦後の日本は彼等に支えられたのです。
「……そして幸福とは何かということも本能的によく分かっていたのである。………それは何よりも人並みに暮らすということであった。人並みのことをするということは村で生活することの第一の条件であった。そうして人並みであれば村人はすべて自分たちと同じ仲間であった。それは人並みとはどういうことであるかというと、その村の人として特色をもつことであったようである。」
「村の中には目に見えない掟があって、たとえば女のひとたちは日常生活に白粉をつけたり、華美な支度をしてはならなかった。食物にもきまりがあって、朝は茶粥と芋、昼は飯に汁、夕飯は昼飯の残りと粥または雑炊であった。飯は麦飯で、米をたべているとすぐ村の評判になる。また酒盛りなどの席に座る順序があり、このようなこと一切は一家の主婦が心得ておくべきことであった。」
母親は娘に、村の中で人並みに生活するべき躾を教えるのです。
一方父親は父親で、息子に百姓仕事はじめ多くのことを教えます。例えば、
「田畑に出てきていきなり仕事をはじめるような百姓は駄目だ。…」事実父は田や畑のほとりに立っておもむろに一服吸って一まわりしてくる。そして田の畔に蟹が孔をあけていないか、肥のくさい具合はどうか、分檗の状況は、と見て歩く。(宮本常一 家郷の訓 昭和18年)
親子の関係はまさに生活の中で密着している。連帯感という用語が空しく無用です。個と個がつながっているのではなく、個と個がとけ合っているのです。
これは都会に出てきて何とか核家族の城を築いた次三男が、ふと思い起こす自分たちの故郷の風景でありましょう。彼等がわが家で、今、目の前にする毎日の都会生活は、全くちがった風景です。
夫は郊外から都心へ満員電車で押し合いへし合いして職場へ、会社では猛烈社員として夜遅くまで働き、帰宅時間は午前さま。奥さんは幼児の砂場ママとのつき合いや保育園ママグループ、小中学校PTAや団地の会合、連絡など。専業主婦として買物や洗濯以外にも多忙。子供は受験勉強でいそがしく塾、習い事などで夜までスケジュールがつまっています。核家族ですので、嫁姑関係の心配はないのですが、かわって子供の不良化やイジメが心配の種となっています。当然出勤時間もバラバラです。夫はきまった通勤時間、奥さんは会合やボランティアの集合時間、子供は始業時間、それぞれがまちまちなので朝食が一緒に食べられません。夜もそれぞれが不定期帰宅なので夕食もバラバラです。家族に共通の話題といえば、次はどんなテレビや冷蔵庫を買ったらよいかやマスメディアの広告の話題ぐらいでしょうか。それでも夏・冬休みには互いにやりくりした旅行や、花見、観劇など家族それぞれが一緒になろうとしているのですが、これも簡単ではありません。
とはいっても、子供1人ひとりが親に教えられることもなく、自分が交際する世間で仲間をつくり、交際ネットワークを広げて、親から独立する準備をしています。
次三男、つまり夫、彼等自身にとっては、会社は彼等の家族よりなじみやすかったかもしれません。中根千恵先生が、「農村の封鎖性ということはしばしばいわれてきたのであるが、筆者の観点からすれば、都市における企業体を社会集団としてみると、基本的人間集団の在り方、集団の質が非常に似ていることが指摘できるのである。」「ここに必然的に、家風とか社風とかいうものが醸成される。そして、これはまた、集団結束、一体感をもりたてる旗印となって強調され、いっそう集団化が促進される」(中根千枝「タテ社会の人間関係」)というとおり、次三男自身にとっては、かつての故郷の若者組や青年団と重なって、新入社員の見習時期を過ごせたのだろうと思います。そして生涯雇用、年功序列の社風の強力な担い手となって猛烈社員の激務を、心情的に違和感なく乗りこえてきたのでしょう。それが、全体としての日本株式会社といわれた日本の経済構造をつくったといえないでしょうか。
核家族の自由でマイホームを楽しんだ次三男を“市民”に成長させたのが、公害・環境問題でした。
昭和45年(1970)7月、東京都杉並区の私立立正高校のグランドで、運動中の女子学生43人が、突然目やのどの痛み、息苦しさなどを訴え、なかには倒れる生徒さえ出ました。光化学スモッグです。光化学スモッグ被害は、その後も頻発し、国民に不安を与えました。今日の福島原発の放射能被害と似ていました。「イタイイタイ病」「新潟水俣病」「四日市公害」「水俣病」の四大公害訴訟がきっかけになり、行政、企業の公害発生責任が問われることになりました。政治的にも地域住民の声は各地に革新自治体を生み出す原動力になりました。公害防止は国民的コンセンサス(合意)を得、環境庁の設置にまで発展しました。多くの次三男は、この運動を通して、「自由」を求めた農民から、都市での核家族の主へ、そして地域住民の生活を守る「市民」へと一皮むけていきました。
高度成長期を切りぬけた、先祖伝来の土地を引き継いだ長男達をとりまく生活環境も大きく変わっていきました。
                 
        

中西洋さんが亡くなりました

2018/ 10/ 28
                 
向社会性研究所の顧問・同人の中西洋さんが亡くなられました。
東京大学経済学部教授、同名誉教授。当研究所の代表の星野進保さんとは大学の同級生で、お互い助け合い、ずっと交友を続けておられました。星野さんは今年1月に、そして今月に中西さんと、同じ年に旅立たれました。このお二人が中心になって、仲間たちでこの研究所を立ち上げたのですが、今頃は向こう岸で仲良く語り合っておられることでしょう。
ご冥福をお祈りします。