核シェルターは本当に必要なのですか  小榑雅章

2017/ 10/ 05
                 
 「日本ではほとんど普及していない家庭用の核シェルターが、にわかに注目を集めている。夏以降、米国のメーカーや国内の取扱業者には、前例のない勢いで注文や問い合わせが舞い込む。北朝鮮によるミサイル発射が相次ぎ、脅威を現実的に捉える人たちが増えたことが背景にある。」「6畳ほどの広さの最小タイプは、価格が4万5千ドル(約500万円)」
昨日の朝日新聞の記事の一部です。
これを読んで、なんとも悲しくなりました。
本気で、北朝鮮のミサイルが飛んでくるようなことを、安倍政権は連呼しています。対抗策は、圧力、圧力あるのみ。相手が音を上げるまで締め付けだ、と選挙演説をしています。
安倍首相は、北朝鮮に実効ある行動がとれるのは自民党だけ、と絶叫しています。
先の戦争で、日本が戦争にしかないと真珠湾攻撃に踏み切ったのはABCD包囲網のためでした。圧力は窮鼠猫を噛む、の譬えもあるように、危険なのです。それを承知で安倍さんは圧力圧力と言い続けるのは、もしかして戦争にしたいのですか。おじいさんの岸さんとおなじですね。
国民に、幻の危機と恐怖を演出し、自民党を勝利させようとしているのでしょうが、アコギなやり方です。
だって、北朝鮮に対し、日本はどういう圧力をかけようとしているのですか。
日本としてできることはもう何年も前からやりつくしていますよ。
ということは、圧力というのは、トランプさんにすがって軍事力を行使してもらおうと思っているのですかね。だから、シェルターが必要なのでしょうか。
悲しいですね。万分の一、いや100万分の1もあり得ないことに、500万円のシェルターを買える金持の道楽者はいいですよ。でも、ほとんどの日本人は、そんなことに使うお金は持っていません。
いや、万が一ミサイルが来たらどうする、と安倍政権が言うのだったら、もっと悲しい。だって貧乏人はシェルターなんて買えないから、ミサイルで死んでしまえと言ってることになりますよ。
金持はシェルターを買って生き延び、貧乏人は死んでください、という政治、悲しいですね。
そんなことより、なんで北朝鮮がシャカリキになってアメリカと交渉をしたがっているのか、それを素直に国民に話すべきではないですか。
北朝鮮は日本なんて相手にしていません。
北朝鮮の望みは何かということです。よく言われるように金王朝の維持でしょう。それを約束できるのはアメリカしないから、アメリカに話し合ってくれ、と言っているのではないのですか。またイラクのサダム・フセインのように、核兵器を隠しているだろうと攻め込まれて、殺されたくない、リビアのカダフィみたいにしないでくれ、その約束をしてくれなければ、アメリカにミサイルを飛ばすぞ、と手練手管を尽くしている。韓国民はそれをわかっている。
日本が、そのとばっちりを食うのはまっぴらだと、なんでトランプさんに言わないのですか。
安倍さんは、韓国の人道的援助の勧告を弱腰だ、日米韓の連帯をこわすと叫んでいますが、本来なら、韓国民が一番最初に雪崩を打ってシェルターを購入するはずでしょう。そんな話は全く聞きません。


                 
        

原動力は移民の活力 星野進保

2017/ 10/ 04
                 
移民も再び急増しました。夢を実現する機会はいくらでもありました。先に述べたように、自然増加 する労働力だけでは大開発が待つ労働需要を賄いきれませんでした。海外からの移民が急増しました。 くりかえしてみしょう。1860年から70年の入国者数は、南北戦争を中心にはさみながら230万人、 その次の10年間には300万人、移民の8割以上はスカンディナビア、ドイツ、イギリスなどヨーロッ パからで、入国者の5分4以上が14歳から45歳の働き盛りでした。彼等は農場の開拓、鉱山の採掘、 鉄道建設など西部大開発の一大勢力となり、その後も10年毎に25%、30%の人口増加をもたらしま した。西部大開発に続く、アメリカの工業化の中核ともなり、アメリカ経済発展の一大勢力となってい きました。 テキサス北部の大平原に育った牧畜業も、カナダ国境近くまで広がり、屠殺・保冷技術や缶詰技術の 進歩で、アメリカの牛肉が世界中に商圏を広げ、北部中央部に広がるプレーリー(prairie 大平原)で の、トーモロコシ・麦などの一種作物(ワンクロップ農業)の大規模機械化農業が発達し、アメリカは 巨大な農産物生産国となりました。農産物の世界的供給基地となるとともに、工業製品も世界市場に参 入してきました。1890年には製造業の生産額が農産物の生産額をしのぐようになりました。1894年 にはアメリカの製造業の生産額はイギリスをこえて世界の首位になりました。

アメリカが手に入れた巨大な中西部の土地をほぼ無償で東部・南部からの移住民、海外からの移民に 払い下げ、アメリカ連邦政府は、鉄道、水運などの大規模州間インフラを公用地を活用して整備して経 済発展の骨格づくりをし、各州がそれらの都市や町村の管理、運用を支援しました。その上で、続々と 民間企業が成育し、成長して、アメリカ経済が巨大化していったのです。 南北戦争がありましたが、大量の奴隷の集団労力による大規模棉花プランテーションから,近代的自 営農業や製造工業にビジネスモデルを変えることを早めた役割をしたと思います。 1861年末までにサウスカロライナからテキサスに至る南部諸州が合衆国から脱退し、「アメリカ連 合国」を組織しました。戦争は合衆国を維持するために行われたのですが、その原因は南部のプラン テーションが全く奴隷の集団作業に依存する産業で、広大な土地と大勢の奴隷労働力を不可欠とする移 動困難な土地定着型産業だったことです。イギリスの繊維工業が羊毛から綿にその素材を急に変えて いったことが南部の棉花生産に永遠の繁栄の幻想を与えていたのです。
南北戦争中の1962年にリンカーン大統領が「奴隷解放」を布告しました。南部のかかえる奴隷制度 に対する国際的批判も高まり、北軍による南部州諸港の封鎖が拡大し、食料の欠乏によって南部連合は 敗北したともいわれます。いずれ南部型の棉花プランテーションモデルは転換せざるを得ない宿命に あったのです。それが南北戦争の奴隷解放で早まったのです。 南部は敗戦によって憲法「修正13条」による奴隷解放を受け入れざるを得ず、棉花の大農園制度は つぶれました。同時に南部連合に加担した官吏などは議会の承認を得られない限り追放されました。 1867年に合衆国に復帰するまでの間、混乱がありましたが,例えば、南部で奴隷を使っていた白人の 大多数が不馴れな労働に従事し,地方的商人や工場従業員になったりしていきました。南部も北部の産 業化に追いつくようになりましたし、南部地方をきらっていた外国移民もこの地方に入り込んでくるよ うになりました。
南北戦争中の高関税による過度の生産と輸出促進、西部開発の急速な進展、鉄道建設事業の急伸、投 資ブームなどが重なって、南北戦争後のブームが続きましたが、そのブームも1873年には以後5年余 続く不況に転じ、企業や工場の倒産、失業が深刻になりました。 この不況下での企業倒産や失業問題の深刻さから、有限責任で事業を設立し、株式発行で企業の拡大 を図れる株式会社制度が急速に普及し、株式持合による企業合同や同種製品の数社による生産調整など 市場独占による企業防衛の方法が発達しました。南北戦争の時代までは農業の時代でした。南北戦争の 後は製造業、商業、銀行などの時代となりました。“1860年代に成功を欲した者は政界へ乗り出した。 70年代80年代に成功を欲した者は実業界へ走った。”といわれました。
シンシナティの缶詰業者が、オハイオとミシシッピ両大河の海運を使って北西部の豚肉やタマネギな どの野菜を利用する主要業者間の集中、合同をすすめ販売市場を拡張しました。軌道の巾の異なる鉄道 会社の軌道を統一して巨大な鉄道会社にしました。電気通信会社や石油業者(たとえばスタンダードオ イル)などが族生し、不況対策とともに大きなネットワークによる競争力の強い合同企業や共同行為 (トラスト、カルテル)を作っていきました。1897年ま好景気は前代未聞の投資景気でした。好景気 は果てしなく続くようにみえました。特に製鉄業の利益は急増し、その株価は将来の予想(エクスペク テーション)利益を資本化した価格までふくらみました。 丁度わが国で、1980年代末の暴騰した地価を株価におりこんで、期待株価を予想したあのバブルを 思い出します。この時期に、1901年に、U.S.スティールが、ウォール街の第一人気者J.P.モルガンに よって出現しました。当時世界一の鉄鋼会社です。
この年の株式市場は、「凡ゆる層の熱狂した客筋が、有金掴んで、あたかも潮のごとくウォール街へ殺到した。そして、取引所附近の株屋の店で日を送った……。新聞紙は、ホテルの給仕や店員や門衛か ら裁縫師にいたるまでの各種のしあわせ者が,相場で巨万の富をつかんだニュースでいっぱいであっ た。」(A.D.ノイス「アメリカ財界40年史」)と、その熱狂ぶりが書かれました。 その泡沫的景気が消えたときに、あまり重大な打撃はありませんでした。アメリカの発展の基盤が しっかりしてきていたのでしょう。富豪階級の著しい増加と個人の資産の増加によって、百万長者の時 代から千万長者の時代が始まったのです。いいかえれば、国家の力を経済力で測る時代がきたのでしょ う。20世紀はいうなればGNP(国民総生産)の時代でした。経済成長率、GNP規模が国力を表すよう になりました。 1800年代末には、公有地の減少を土地局委員会が危惧しました。インディアン保留地域の余剰地域 を白人移住者に開放すること(1888年 ドーズ法)や内務省内に林業部が設置され、最初の保安林が 1891年にできました。アメリカを力強く発展させる原動力“フリーランド、自由土地”であった公有 地がなくなってきたのです。地球資源の限界を気にしないカウボーイ経済の時代から,気にせずにはい られない宇宙船地球号の時代に人類は移り出しました。
                 
        

国難とは何のことですか  小榑雅章

2017/ 09/ 26
                 
国難突破解散」と銘打って、安倍晋三首相は衆議院解散、総選挙を断行するそうですね。2年も先の消費税の値上げが喫緊の国難とは言わないでしょうから、安倍さんの国難とは北朝鮮問題なのでしょう。
もし、いま国難なら、そんな事態の時に解散などしていられるはずがないのですから、それ一つ見ても、本気で国難などと思っていない証拠です。
Jアラートを鳴らして、安倍さんは、たいへんだ、国難だぁ、北朝鮮のロケットが落ちるかもしれない、日本に向かってミサイルが飛んでくるかもしれないからシェルターを用意したほうがいい、と国民の不安をあおっています。そして自分はそれに立ち向かう憂国の士を演出しているようにしか見えないのですが。
野党があまりにもだらしがないから、選挙をしたら自民党、という結果になるのでしょうが、それにしても、国民に国難だと危機をあおるやり方は、自分の利得のために国民を誤った方向に導いているとしか思えません。
辞書によれば、国難とは、「国の災難。国の危難。国家の存亡にかかわる危機」とあります。
浅学の私の理解では、国難は元寇しか思い浮かびませんが、黒船来航のときも国難と騒がれたのでしょうか。
日本の本当の国難は、先の太平洋戦争の時の国民の悲惨さです。その国難を誰がもたらしたかといえば、それは日本国政府だったのです。
鬼畜米英、ABCD包囲戦、42対1国際連盟脱退、負けられません勝つまでは・・・そう言って危機をあおり続けて、その結果、国土は焦土と化し、300万もの国民が命を失いました。
それと同じように、いままた国難をあおるのですか。
北朝鮮と38度線で国境を接している韓国が、最も危機を感じているはずなのに、その韓国が、まず話し合いすべきだ、人道援助だ、と言っているのに、遠く離れたアメリカと北朝鮮がけんか腰なのはなぜかを考えたらいい。
トランプ米大統領は19日、ニューヨークの国連本部で行った演説で、米国は北朝鮮を「完全に破壊」せざるを得なくなる可能性があると述べました。
韓国と北朝鮮は同じ国の同胞でした。朝鮮戦争によって分断されましたが、おなじ国民です。南北に分かれても同じ祖先の親戚がいっぱいいます兄弟もいます。日本でいえば、フォッサマグナ線で東西別な国に分けられたようなものです。その同じ民族の片方が、「完全に破壊」などとトランプ大統領に言われて、心穏やかなはずがありません。
日本人の中には、北朝鮮が完全に破壊されて安心になるという人もいますが、世界中、完全に殲滅されていいような民族も人々もいません。まして韓国と北朝鮮は同じ民族です。
その民族の殲滅を公言するトランプ大統領に、安倍首相は一心同体みたいにしがみついて、完全に日米一体であると宣言し、日本国民は安心だ、みたいに胸を張っている。
安倍政権は、何かあると尖閣列島を中国に取られていいのか。だから自衛隊を増強するんだ、そして断固戦って撃退する。
そういわれるとほとんどに日本人は、それももっともだ、尖閣列島は守るべきだ、安倍さんの言うとおりだ、と思うでしょう。
でも、それなら何で、日本国有の領土だという竹島を、自衛隊で奪還しないのですか。択捉や国後、歯舞、色丹をなぜ自衛隊で奪還してこないのですか。
ロシアや韓国と本気で戦争するのはだめなのですか。中国となら戦争をするのですか。そして何百万もの国民のいのちを奪うのですか。
                 
        

経済大国への原動力は公用土地      星野進保

2017/ 09/ 24
                 
1820年の土地法で、西部住民からの要望によって、かつての土地条令(1785年)の大区画払下げ方式が、小区画(1区画80エーカー、1エーカー1.5ドル)方式に変更されました。これなら100~200ドル前後で誰でも買える水準でしたので、土地需要が急増し,土地バブルが起きはじめました。1836年には、払い下げの土地の価格は、売値の10倍近くの値段で「ペット・バンク」の担保となりました。投資、投機で土地の売買はふくらみ、地価は昂騰しました。政府財政収入は地価値上がりの土地収入増もあって大幅な余剰金が発生し、政府はそれを各州に公共投資のための資金として分与しましたが、それがまた地価上昇を加速させました。地価昂騰が紙幣発行によって進んでいるとみた政府は、土地代金支払を一切正金支払にするべし、と命令を出しました。各銀行は政府命令による貸付金回収の必要と重なり、正金は市場で全く払底し、バブルは一挙につぶれました。民間はもちろん、若干の州では利払不能、元本返済を拒絶する状態になり、各州は公共事業の発注を中止しました。ナポレオンからの広大な中西部地域の土地の買い取りから急速に拡大した国土を前にして新しいアメリカの未来を期待する“西部を開発せよ”との土地政策だったはずです。恐慌から立ち直るのに数年間を必要としました。
この経験が膨大な公用地政策に反省を促しました。公用地を払下げて財政収入を増やすことを大切にするのか、合衆国全体の利益となる広大な中西部の移住を促進することが大切なのか、の選択でした。論争の結果、移住の奨励こそが、公用地活用の最大の目的となりました。1840年から南北戦争が始まる前年の1860年までに政府が処分した土地は2億7千万エーカー(約1億ヘクタール)余、内払下げられた土地は、わずか7千万エーカーで、残余は無償下附の処分をうけました。
政府の土地は、1862年の家産法(ホームステッド・アクト)によって、公有地の移住奨励に活用されました。5年間一定の土地に居住して開墾すれば、無償で160エーカーの土地が提供されました。約100万の家族が農地を取得しました。同法はその後もアメリカ発展に大きな役割を果たしました。この法律の姉妹法として、農業、工業の専門学校教育を目的として、各州に各州選出議員一人当り3万エーカーが下附されました。
国土開発に大きく役立ったのが、太平洋に達するアメリカを横断する「太平洋鉄道」建設でした。南北戦争の勃発で、南部州議員が合衆国を脱退したので、多年そのルートについてもめていたのが一気に中央線を通ることで決定されました。同1862年に「連合太平洋鉄道」(ユニオン パシフィック レイルロード)に広大な土地下附の法令が議会を通過しました。同法は国民的結合とそれを強化することを目的にかかげています。同鉄道会社は、既に建設に着手し出した23の軌道の連合です。政府は、鉄道1マイル建設する毎に公有地10平方マイルを下附し、政府貸附の1万6千ドルに対する債券の発行を許可しました。2年後それでは不十分なことが分かり、下附地の面積、債券発行高も増加しました。アメリカは広大な国になりました。広大なアメリカにとって鉄道への依存は不可欠でした。駅馬車の時代は遠く後に去って行きました。南北戦争後の急速な発展を支えていきました。1865年から74年の間に3万3千マイル以上の鉄道が建設され、過去35年間のマイル数を9年で2倍にしました。
                 
        

政党政治が見えてきた 星野進保

2017/ 09/ 03
                 
この頃から、元勲の代表格であり藩閥政権の中枢にあった伊藤と山縣両巨頭が異なった方向に歩み出したように思います。二人の根底には天皇機軸の下に内閣は超然内閣であるべきとの立憲時の初心はありましたが、政党内閣の流れに敏感な伊藤と、かたくなな反政党主義者の山縣とは、政党政治をはさんで段々に距離が遠ざかっていきました。
1901年に桂太郎が首相になりました。桂は長州出身で山縣のもとで、ドイツ式陸軍の建設に3年間のドイツ留学の成果を充分に発揮しました。陸軍大臣も3年間務めています。4年半に及ぶ第一次桂内閣で日露戦争を指導し、その名声は一気に高まりました。
伊藤がハルピンで殺された(1909年、明治42年)こともあり、なお山縣は健在でしたが、元勲の中心は桂と、その後に元勲となる西園寺に移っていきました。桂園時代です。桂園時代の注目すべき動きは、西園寺が伊藤の立憲政友会総裁を継ぎ、桂も自らの立憲同志会を結党しようとしたことです。残念ながら桂は結党を見ずに亡くなり(1913年10月)加藤高明が立憲同志会を継ぎました。山縣の部下だった桂ですが、伊藤同様、国家の広い視野からは、政党時代の来ることは避けえないと感じていたのでしょう。3次にわたる超然内閣である桂内閣は政友会の西園寺や原敬と協調しながら政策を運営していました。こうして徐々に政党政治の時代が見えてきました。山縣は1922年(大正11年)に没しました。
1924年(大正13年)衆議院の第一党憲政会総裁加藤高明が首相の大命を受けました。この加藤高明内閣から首相は衆議院最大党派の党首に、西園寺たちの重臣が天皇に奏請することで大命降下されるようになりました。第一次若槻礼次郎内閣(1926年昭和元年、憲政会総裁)、田中義一(1926年昭和2年)浜口雄幸内閣(1929年昭和4年 憲政会と政友本党合同で立憲民政党総裁)、犬養毅内閣(1931年昭和6年 政友会)と憲政会と政友会の政権交替が行われるようになりました。
1925年(大正14年)3月に普通選挙法が議会できめられました。“普通”の意味は、選挙権の納税義務を撤廃して成人男子ならだれでも25歳になったら選挙権がもてる、被選挙権が30歳以上になったらもてる、ということです。
この時代には未だ婦人の参政権はありません。選挙区は戦後のわれわれにもなじみのあった中選挙区制でした。普通選挙制による最初の衆議院選挙戦が1928年2月2日に行われ、結果は、政友会217議席、民政党216、諸党8 の議会勢力となりました。
伊藤の模範的政党への夢が育ちつつあるかに見えました。
普通選挙法と同時に治安維持法も議会で成立しました。そして初めての普通選挙制による選挙の1か月後(3月15日)に治安維持法による共産党員の一斉検挙が行われました。その裁判の法廷で争われたのが、「国体」とは何かでした。判決は、「我帝国は萬世一系の天皇君臨し統治権を総攬し給うことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如く解すべきものとす」と実定法で国体を定義しました。
治安維持法そのものの役割については多くの非難がありますが、それはそれとして、この定義に触発されて、学会からは蓑田胸喜教授のような“神がかり的な国体明徴精神を代表する”(細川隆元)学者や、1935年以降の国体明徴運動、文部省の「国体の本義」(文部省、1937)などが天皇の絶対化を進めていった、と筆者は思います。伊藤のあの苦心した天皇教は、伊藤亡きあと、テロや軍事化の免罪符「国体」に変身していったのです。

                 
        

私の東京物語 第10話 花森さんと中内功さん  小榑雅章

2017/ 08/ 23
                 
暮しの手帖の花森安治さんが亡くなった
のは、1978年1月だった。そのあと、
6年間編集部で働いていたが、「とと姉
ちゃん」の大橋鎭子さんと意見が合わ
ず退職した。そして、スーパーのダイエ
ーに就職した。
ダイエーの東京本社は、港区芝大門の
日活ビル(軍艦ビル)の中にあった。
私の仕事は、ダイエー創業者で社長の
ワンマンとして名高い中内功さんの秘
書だった。
考えてみたら、私の上司は生涯に2人し
かいない。花森安治と中内功という傑
出した創業者だ。当然、2人はわがまま
だ。というより、2人とも自分の考えや世
界があり、つねにその物差しで思考し行
動している。
その下で働くためにはその物差しに合う
ように動かなければならない。それを周
りはわがままだとか、ワンマンだとか評
する。
中内さんは軍艦ビルの14階に社長室
があり、その隣の部屋に私はいた。何か
用事があると呼ばれて「あれはどういうこ
とや」とか「このことを調べてくれ」「こ
の件はこれでいいと思うか」と下問され
たりして、そのつど、資料を求めて自転
車で近くの港図書館に駆け付けて調べ
たものだ。
大の大人が、腰軽に自転車で走り回る
のが意外だったらしく、中内さんにはい
たく感心されたが、暮しの手帖では当た
り前のことだった。花森さんも3輪自転
車に乗っていた。
その花森さんは、この軍艦ビルのすぐそ
ばの増上寺に眠っている。中内さんのわ
がままに腹を立てると、私は、何度も、増
上寺の花森さんに会いに行った。そして、
だらしがないと叱られた
(東京新聞2017年8月17日掲載)
                 
        

私の東京物語 第9話 銀座から東麻布へ  小榑雅章

2017/ 08/ 23
                 
暮しの手帖社は、銀座に営業の数人
を残して「発行元、銀座」、という形を維
持しつつ、昭和37年ごろから徐々に東
麻布に研究室兼編集室を移した。
日本には全くなじみのなかった商品テ
ストを始めた暮しの手帖は、爆発的支持
を受けていた。
時代は高度成長期。1961年に池田
内閣が所得倍増計画を打ち出し、家電
ブームが起きていた。主婦にとって掃除
や洗濯は苦痛であり、電気の力でそれを
解放してくれるという電気洗濯機や掃除
機、それに電気冷蔵庫は、欲しくて仕方
がない商品だった。しかし、高い。どうせ
買うなら後悔はしたくない。少しでもいい
ものを、と思うのは当然だ。どこのメーカ
ーの商品を買ったらいいのか、日本中の
主婦の欲しがる情報だった。
10台以上の電気洗濯機や電気冷蔵
庫を同時にテストしたり、24時間エアコ
ンの検査をするためには、銀座ではむり
だった。
港区東麻布の暮しの手帖研究室は、
タイル張りの水道の蛇口がたくさんつい
た洗濯室や料理が出来る3つのキッチン
などをつくり、どこにはばかることなくテス
トが出来た。
ソ連大使館の脇の狸穴坂を下りきった
狸穴公園の近くにあり、静かな住宅街だ
った。この研究室での食事は、材料を近
所で買ってきて各自が勝手に料理して
食べる。夜は、編集部員が当番制で全
員の食事を作る。だから地元の新網町の
八百屋や豆腐屋、ほど近い麻布十番に
も、毎日のように買い物に出かけた。
十番の魚勝で魚を買い、原ストアーや
日進ハムには、暮しの手帖は上得意だ
った。
(東京新聞2017年8月16日掲載)