日本には治安維持法の負の歴史がある   小榑雅章

2017/ 05/ 24
                 
テロ等準備罪に名前を変えた「共謀罪」も衆議院を通過してしまいました。
諸外国にはみんな「共謀罪」的な法律がある、日本だけがないから、国際条約の批准ができない、と政府は言っています。
そこで一つ伺いたい。戦前の日本には、治安維持法という法律があり、多くの無実の人々が言論・思想を弾圧され、投獄、獄死させられた歴史を持っている、諸外国は、こういう歴史を持っているのですか、と問いたいのです。
かつてのわが日本では、戦争に批判的なことを、茶呑み話で少しでもささやいただけで、治安を脅かしたと警官にしょっ引かれたのです。
その結果、3百万人を越える同朋たちが亡くなりました。近隣諸国にもその10倍ともいわれるほどの被害を与えてしまいました。
残念ながら、私たち日本には言論も思想も封殺し、多くの人々を塗炭の苦しみに突き落とした歴史があるのです。他の諸外国にはない、負の歴史があるからこそ、すこしでもその恐れのあるような共謀罪・テロ等準備罪に反対するのです。
他国では、諸外国では、という論理は、日本には通用しないのです。
                 
        

経済大国への原動力は公用土地の活用と移民の活力   星野進保

2017/ 05/ 18
                 
1820年の土地法で、西部住民からの要望によって、かつての土地条令(1785年)の大区画払下げ方式が、小区画(1区画80エーカー、1エーカー1.5ドル)方式に変更されました。これなら100~200ドル前後で誰でも買える水準でしたので、土地需要が急増し,土地バブルが起きはじめました。1836年には、払い下げの土地の価格は、売値の10倍近くの値段で「ペット・バンク」の担保となりました。投資、投機で土地の売買はふくらみ、地価は昂騰しました。政府財政収入は地価値上がりの土地収入増もあって大幅な余剰金が発生し、政府はそれを各州に公共投資のための資金として分与しましたが、それがまた地価上昇を加速させました。地価昂騰が紙幣発行によって進んでいるとみた政府は、土地代金支払を一切正金支払にするべし、と命令を出しました。各銀行は政府命令による貸付金回収の必要と重なり、正金は市場で全く払底し、バブルは一挙につぶれました。民間はもちろん、若干の州では利払不能、元本返済を拒絶する状態になり、各州は公共事業の発注を中止しました。ナポレオンからの広大な中西部地域の土地の買い取りから急速に拡大した国土を前にして新しいアメリカの未来を期待する“西部を開発せよ”との土地政策だったはずです。恐慌から立ち直るのに数年間を必要としました。
この経験が膨大な公用地政策に反省を促しました。公用地を払下げて財政収入を増やすことを大切にするのか、合衆国全体の利益となる広大な中西部の移住を促進することが大切なのか、の選択でした。論争の結果、移住の奨励こそが、公用地活用の最大の目的となりました。1840年から南北戦争が始まる前年の1860年までに政府が処分した土地は2億7千万エーカー(約1億ヘクタール)余、内払下げられた土地は、わずか7千万エーカーで、残余は無償下附の処分をうけました。
政府の土地は、1862年の家産法(ホームステッド・アクト)によって、公有地の移住奨励に活用されました。5年間一定の土地に居住して開墾すれば、無償で160エーカーの土地が提供されました。約100万の家族が農地を取得しました。同法はその後もアメリカ発展に大きな役割を果たしました。この法律の姉妹法として、農業、工業の専門学校教育を目的として、各州に各州選出議員一人当り3万エーカーが下附されました。
国土開発に大きく役立ったのが、太平洋に達するアメリカを横断する「太平洋鉄道」建設でした。南北戦争の勃発で、南部州議員が合衆国を脱退したので、多年そのルートについてもめていたのが一気に中央線を通ることで決定されました。同1862年に「連合太平洋鉄道」(ユニオン パシフィック レイルロード)に広大な土地下附の法令が議会を通過しました。同法は国民的結合とそれを強化することを目的にかかげています。同鉄道会社は、既に建設に着手し出した23の軌道の連合です。政府は、鉄道1マイル建設する毎に公有地10平方マイルを下附し、政府貸附の1万6千ドルに対する債券の発行を許可しました。2年後それでは不十分なことが分かり、下附地の面積、債券発行高も増加しました。アメリカは広大な国になりました。広大なアメリカにとって鉄道への依存は不可欠でした。駅馬車の時代は遠く後に去って行きました。南北戦争後の急速な発展を支えていきました。1865年から74年の間に3万3千マイル以上の鉄道が建設され、過去35年間のマイル数を9年で2倍にしました。
移民も再び急増しました。夢を実現する機会はいくらでもありました。先に述べたように、自然増加する労働力だけでは大開発が待つ労働需要を賄いきれませんでした。海外からの移民が急増しました。くりかえしてみましょう。1860年から70年の入国者数は、南北戦争を中心にはさみながら230万人、その次の10年間には300万人、移民の8割以上はスカンディナビア、ドイツ、イギリスなどヨーロッパからで、入国者の5分4以上が14歳から45歳の働き盛りでした。彼等は農場の開拓、鉱山の採掘、鉄道建設など西部大開発の一大勢力となり、その後も10年毎に25%、30%の人口増加をもたらしました。西部大開発に続く、アメリカの工業化の中核ともなり、アメリカ経済発展の一大勢力となっていきました。
テキサス北部の大平原に育った牧畜業も、カナダ国境近くまで広がり、屠殺・保冷技術や缶詰技術の進歩で、アメリカの牛肉が世界中に商圏を広げ、北部中央部に広がるプレーリー(prairie 大平原)での、トーモロコシ・麦などの一種作物(ワンクロップ農業)の大規模機械化農業が発達し、アメリカは巨大な農産物生産国となりました。農産物の世界的供給基地となるとともに、工業製品も世界市場に参入してきました。1890年には製造業の生産額が農産物の生産額をしのぐようになりました。1894年にはアメリカの製造業の生産額はイギリスをこえて世界の首位になりました。
アメリカが手に入れた巨大な中西部の土地をほぼ無償で東部・南部からの移住民、海外からの移民に払い下げ、アメリカ連邦政府は、鉄道、水運などの大規模州間インフラを公用地を活用して整備して経済発展の骨格づくりをし、各州がそれらの都市や町村の管理、運用を支援しました。その上で、続々と民間企業が成育し、成長して、アメリカ経済が巨大化していったのです。
南北戦争がありましたが、大量の奴隷の集団労力による大規模棉花プランテーションから,近代的自営農業や製造工業にビジネスモデルを変えることを早めた役割をしたと思います。
1861年末までにサウスカロライナからテキサスに至る南部諸州が合衆国から脱退し、「アメリカ連合国」を組織しました。戦争は合衆国を維持するために行われたのですが、その原因は南部のプランテーションが全く奴隷の集団作業に依存する産業で、広大な土地と大勢の奴隷労働力を不可欠とする移動困難な土地定着型産業だったことです。イギリスの繊維工業が羊毛から綿にその素材を急に変えていったことが南部の棉花生産に永遠の繁栄の幻想を与えていたのです。
南北戦争中の1962年にリンカーン大統領が「奴隷解放」を布告しました。南部のかかえる奴隷制度に対する国際的批判も高まり、北軍による南部州諸港の封鎖が拡大し、食料の欠乏によって南部連合は敗北したともいわれます。いずれ南部型の棉花プランテーションモデルは転換せざるを得ない宿命にあったのです。それが南北戦争の奴隷解放で早まったのです。
南部は敗戦によって憲法「修正13条」による奴隷解放を受け入れざるを得ず、棉花の大農園制度はつぶれました。同時に南部連合に加担した官吏などは議会の承認を得られない限り追放されました。1867年に合衆国に復帰するまでの間、混乱がありましたが,例えば、南部で奴隷を使っていた白人の大多数が不馴れな労働に従事し,地方的商人や工場従業員になったりしていきました。南部も北部の産業化に追いつくようになりましたし、南部地方をきらっていた外国移民もこの地方に入り込んでくるようになりました。
南北戦争中の高関税による過度の生産と輸出促進、西部開発の急速な進展、鉄道建設事業の急伸、投資ブームなどが重なって、南北戦争後のブームが続きましたが、そのブームも1873年には以後5年余続く不況に転じ、企業や工場の倒産、失業が深刻になりました。
この不況下での企業倒産や失業問題の深刻さから、有限責任で事業を設立し、株式発行で企業の拡大を図れる株式会社制度が急速に普及し、株式持合による企業合同や同種製品の数社による生産調整など市場独占による企業防衛の方法が発達しました。南北戦争の時代までは農業の時代でした。南北戦争の後は製造業、商業、銀行などの時代となりました。“1860年代に成功を欲した者は政界へ乗り出した。70年代80年代に成功を欲した者は実業界へ走った。”といわれました。
シンシナティの缶詰業者が、オハイオとミシシッピ両大河の海運を使って北西部の豚肉やタマネギなどの野菜を利用する主要業者間の集中、合同をすすめ販売市場を拡張しました。軌道の巾の異なる鉄道会社の軌道を統一して巨大な鉄道会社にしました。電気通信会社や石油業者(たとえばスタンダードオイル)などが族生し、不況対策とともに大きなネットワークによる競争力の強い合同企業や共同行為(トラスト、カルテル)を作っていきました。1897年の好景気は前代未聞の投資景気でした。好景気は果てしなく続くようにみえました。特に製鉄業の利益は急増し、その株価は将来の予想(エクスペクテーション)利益を資本化した価格までふくらみました。
丁度わが国で、1980年代末の暴騰した地価を株価におりこんで、期待株価を予想したあのバブルを思い出します。この時期に、1901年に、U.S.スティールが、ウォール街の第一人者J.P.モルガンによって出現しました。当時世界一の鉄鋼会社です。
この年の株式市場は、「凡ゆる層の熱狂した客筋が、有金掴んで、あたかも潮のごとくウォール街へ殺到した。そして、取引所附近の株屋の店で日を送った……。新聞紙は、ホテルの給仕や店員や門衛から裁縫師にいたるまでの各種のしあわせ者が,相場で巨万の富をつかんだニュースでいっぱいであった。」(A.D.ノイス「アメリカ財界40年史」)と、その熱狂ぶりが書かれました。
その泡沫的景気が消えたときに、あまり重大な打撃はありませんでした。アメリカの発展の基盤がしっかりしてきていたのでしょう。富豪階級の著しい増加と個人の資産の増加によって、百万長者の時代から千万長者の時代が始まったのです。いいかえれば、国家の力を経済力で測る時代がきたのでしょう。20世紀はいうなればGNP(国民総生産)の時代でした。経済成長率、GNP規模が国力を表すようになりました。
1800年代末には、公有地の減少を土地局委員会が危惧しました。インディアン保留地域の余剰地域を白人移住者に開放すること(1888年 ドーズ法)や内務省内に林業部が設置され、最初の保安林が1891年にできました。アメリカを力強く発展させる原動力“フリーランド、自由土地”であった公有地がなくなってきたのです。地球資源の限界を気にしないカウボーイ経済の時代から,気にせずにはいられない宇宙船地球号の時代に人類は移り出しました。

                 
        

安倍さん、憲法9条を改正するなら15条や25条も改正したらどうですか   小榑雅章

2017/ 05/ 11
                 
安倍首相は憲法記念日の3日に、憲法を改正すべき項目として9条を挙げて「1項、2項を残しつつ、3項に自衛隊を明文化し、2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」との考えを示した。その理由として、憲法9条については「多くの憲法学者が、自衛隊は違憲としている。それを放置するのはあまりにも無責任だ」として、憲法を改正して自衛隊の根拠を9条に追加して現実に合わせてあげるのだとの考えを強調した。
「憲法学者が、違憲とか違憲状態というのだから、改正して現実に合うように憲法を改正しなければならない」というのだとしたら、改正しなければならない条項は他にもいろいろある。
たとえば、第十五条。
  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
  2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
国民の誰かが、財務省の役人や区役所の窓口担当者を「選定したり、罷免した」ことなど、あるだろうか。また「全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」なんて、だれも信じられないだろう。国会議員の多くは、業界団体、地方地方の要望を背負って当選してくるのだから、「それはダメだ、一部の奉仕者ではない」といわれても、へらへら笑うしかないだろう。
教育勅語教育に感激して、首相夫人が名誉校長になったら財務省も特例をもうけてサービスをする、野党に攻められても、安倍一強のなかで、誰も異を唱えないで下を向いている。だれも憲法違反だ、けしからん、憲法を改正して「公務員は全体の奉仕者ではなく、一部の奉仕者である」とか、「公務員の選定も罷免も出来ません」と改訂しよう、などとは叫ばない。
 第二十条はどうだ。
 この、第3項 「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と明記されている。しかしそれにも関わらず、総理大臣も、大臣たちも公務員たる国会議員の多くが、靖国神社という特別な宗教団体に公式参拝したり榊を奉納したりという宗教的活動をしているのは、憲法違反だと憲法学者もいっている。だから「国及びその機関は、靖国神社は特別に宗教的活動よろしい。公務員も参拝してよい」と憲法改正をすべきなのだが、安倍首相はこのことは何も言わない。
 もっとも重要なのは、第二十五条だ。
  第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
  2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
最大の問題は、この「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と日本国憲法に明記されているこのことが、この日本という私たちの国で守られているか、ということだ。
 つい先日、7日の夜中に福岡のアパートが全焼し、6人が亡くなった。違法の木造アパートにでも住まわざるを得なかったほど困窮した人たちだったと言われている。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するような状態ではなかったのだ。
 母子家庭で、保育所がないから勤めに行けない。母子が餓死寸前で見つかったと言う報道もあった。
 日本人の約6人に1人が相対的な貧困層という調査もある。この調査で生活意識が「苦しい」とした世帯は59.9%だった。貧困率が増加しているのは、長引くデフレ経済下で子育て世帯の所得が減少したことや、母子世帯が増加する中で働く母親の多くが給与水準の低い非正規雇用だと分析されている。
 「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と憲法にあっても、なおこういう現実がそこにある。
 現実がこうだから、この二十五条を「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有しない。一部の貧乏人は仕方がない」と、憲法改正しようと安倍さんは提案するだろうか。
  憲法というのは、国民の「希望」だ。「目標」だ。「願い」だ。それがあるからその目標に少しでも近づこうと政治も国民も頑張るのだ。「戦争はもう絶対にしない」というのが国民の希望なのだ。
 それをやめて、現実だからそれに合わせるというのでは、それは憲法ではない。そこにはひどい現実しかない。それを少しでもなくそうと言う「希望」も「目標」も「願い」もなくなってしまう。
 安倍という人は、国民の「希望」も「目標」も「願い」も奪い去ろうと言うのか。
                 
        

戦争だけは絶対にだめだ-中内功の原点    小榑雅章

2017/ 05/ 09
                 
昭和55年2月7日、京都の国立京都国際会館で関西財界セミナーが行われていた。折から、ソ連がアフガニスタンに侵攻していて、基調講演を行った日向方斉関西経済連合会会長は、ソ連の脅威を前提に徴兵研究の必要性を主張した。
 「日本は、本格的な局地紛争の抑止力を保つ必要がある]と説き、国民一人一人が国を守る心を育成するべきだと問題提起した。
その時、会場から「異議あり」という声を上げたのが、ダイエーの中内功社長だった。第二次世界大戦で召集され、フィリピンの山の中で米軍と闘い、全身に負傷して九死に一生を得た経験があった。戦争だけはやってはいけない。「あなたは息子さんが戦争に行って戦死してもいいんですか」とつめよった。さらに「わが国は対米追随ではなく、ソ連を仮想敵国とみるべきではない。日本は貿易などで東西の架け橋になるべきだ」とと反論した。
  これに対し、日向が激しく反論。さらに他の参加者らも国防費拡張を支持する発言や「憲法を改正して自衛隊を国防隊として内外に認識させるべきだ」などと相次いで、中内さんは孤立した形になった。それえでも一歩も引かなかった。
日向会長には、公私にわたってお世話になっていた大先輩だったが、私はひるまず、主張した、戦争だけは絶対にいかん、と私は何度も中内さんから教えられた。
 いま、安倍首相は憲法改正に必死だ。憲法記念日の5月3日には、「2020年までに憲法9条に自衛隊を書き加える改正を行なう]と言い出した。そんな改正の必要などまったくないのに、とにかく改正の道筋をつけたい一心だ。
 北朝鮮が攻めて来たらどうする、ミサイルを撃ち込まれたら大変だ、と国民の恐怖をあおって軍備増強と憲法改正を実現しようと見え見えである。
 本気で、北朝鮮が攻めてくると言うのか、北朝鮮ときちんと話し合ったのか、北朝鮮が何を求めているのか、正面から話し合ったのか。中内さんの言うように「日本は貿易などで東西の架け橋になるべきだ」とは考えないのか。
  日本はトランプ大統領の尻馬に乗って憲法改正の機運に利用しようとしているが、国民を目くらましにし、間違った誘導をしてはならない。
 戦争は絶対にダメなのだ。
 先の戦争で、310万人もの犠牲者を出したことを忘れてはならない。
                 
        

第2章  アメリカ---- 自由の天地、無限の公用地と大量の移民の国家 星野進保

2017/ 05/ 02
                 
西部へ 西部へ

アメリカ合衆国の発展には,イギリスのような、農民を工場労働者にかえるための農地の囲い込み(エンクロージャー)はありません。広大な土地が、それを開墾して肥沃な農地や牧場にかえていく農民、牧童などの植民者、移民を待ち受けていたのです。
極端にいいきれば、アメリカ合衆国(以下「アメリカ」と略します)は、広大な安価に手に入る土地と、欧州各国の息苦しい社会をとび出した若い移民達が、新しい希望をもって切り開いた国家です。
ヴァージニアに「特許貿易商会」の事業として最初のイギリス植民地が建設されたのが1607年です。そして以前にも紹介した、清教徒「プリグリム・ファーザズ」の一団がニューイングランドのプリマス港に上陸したのが1620年です。それがニューイングランド諸州の基礎となる植民地であり、アメリカの民主主義的基礎となる地方自治体(local)となる町・村のはじまりでした。
アメリカは、イギリスとの独立戦争を勝ちぬいて、1776年に独立を宣言しました。イギリスも1783年にはアメリカの独立を正式に承認しました。旧植民地から独立した13州は、それぞれの州(state)の憲法を制定し、1780年には出そろいました。州憲法で大切なのは、人民の自由と主権の保護を明確にすることでした。例えば各州政府は軍隊を持たないことにしました。何故なら植民地時代、英国正規軍に苦しめられたからです。政府のあらゆる官吏を直接、間接に、人民が選出することとし、主権者人民の声を圧殺する寡頭政治を防ぐため、議員や知事の任期を一期4年に限るなど厳しい制度を設けました。
1789年には、合衆国憲法(Federal Constitution)が施行され,連邦(Federal)政府が発足しました。初代大統領には、独立の指導者ジョージ・ワシントンが選ばれました。アメリカはその統治機構が歴史的にも、地方から始まり州・連邦へと積み上がってきた国家です。この地方、州、連邦それぞれの政府が分権化されており、それぞれの政府は独自に選出された首長、議員をもち、課税、支出権限、一般行政や規制の権限を行使します。これらの多くのレベルの自治政府で国家全体が構成されています。
憲法制定で一番もめたのは、議会の各州代表の構成でした。今日まで続いている上院は、州の人口の大小にかかわらず各州とも2名づつ、下院は人口割りで各州の議席数を割りふることで妥協が成立しました。統治部門では、国王的権力を持つ官吏であって国王ではない、大統領制が定められ,全国民によって選出されること(選挙代理人制)とし、国王のように専制化しないように任期4年、再選ありとしました。その選挙方法については多くの試がなれされて、今日に至っています。統治部門でもう一つ重要なのが、連邦最高裁判所に代表される、独立の連邦の裁判制度です。個人と行政機関、行政機関の間の争いの裁定役になります。
連邦政府は、国内経済の対外事項の権限だけでなく、外交を管轄する権限を与えられています。州と州の間の平和維持に加え、対内、対外の国を守る責任は、その権限のほとんどが連邦に委ねられています。一方、連邦裁判所の連邦司法制の方は、憲法、法令の解釈、連邦と州の権限の境界などの裁きについて責任をもちます。
憲法は連邦政府の権限についても、州、地方の権限についても、すべてを規定してはいません。そこで規定されている以外の権力は州が人民に対して直接責任をもつことになります。このような政府、統治の姿を、学者は二つの連邦制と呼んでいます。
今日あるアメリカの北米大陸の領域が確定したのが1848年です。独立後70年目です。ハワイ、アラスカ州の2州を除いた,48州が分け合っているアメリカの国土です。独立した東部13州に始まり,西へ西へと国土が広がつて行きました。対イギリスの独立戦争から1789年のフランス革命、ナポレオン戦争と、さらにウィーン平和会議が開かれた1815年までの動乱期には、海外からの移民はせいぜい年間9千人ぐらいで、わずかなものでした。しかし、ニューイングランド地域の狭い州は、人口増加からイリノイ、インディアナの河川流域への移住をはじめていました。南部の棉花栽培の大プランテーションも西部へ拡大しはじめました。西部に開発された新地方は、いわばそこへ移住していった初代各州の人々の植民地です。そこで、この植民地が、初代の各州と対等の立場で連邦に加入する法令が1787年にできました。州に独立するために、初代諸州政府に倣う政治形態の下で経験を積むため「准州」(テリトリー)として、見習いをして、その上で州として連邦に加入する方法でした。西部大開発の進展と州の増大を受けとめる巧妙な手立てでした。
人口の膨張と新たな辺境の発生の過程で、社会も絶えず変化していきました。そういう変化は、初期植民の時代から起こっていたので徐々にではありましたが、西方に移行するのに従って、それだけ欧化の影響から遠ざかることになっていきました。辺境の住民と海岸の住民が相互に影響を及ぼし合い、また地方と地方、階級と階級とが相互に作用し合ったことによる、一つの新しいものへの、いわば“アメリカ式”として知られる生活や風習が発達しました。海外からの移民の渡来がわずかだったこの時期こそ、初代のアメリカ人達が新天地での新しい生活文化を生み出していく絶好の時期だったのかもしれません。
領土問題でアメリカ人を驚かせたのが、フランスの植民地ルイジアナ全土を買わないかという、その当時フランスを支配していたナポレオンからの申し出でした。そのルイジアナというのは、州の名前でいえば、北は東に向かってモンタナ、北ダコタ、ミネソタ、それを南下するアイオワ、ミズーリ、アーカンソー、ルイジアナ、そこから西へオクラホマ、コロラドに囲まれた広大な中西部です。これを買取ればアメリカの領域は一気に倍になります。1803年に買取りは完了しました。次いでアメリカは、メキシコとの戦争に勝利して(1848年)、アリゾナ、カリフォルニア、ネバダ、ユータを割譲され、それにテキサスを正式に領土としました。同時期に、オレゴン地方(オレゴン、ワシントン州)のアメリカ・カナダ国境線をロッキー山脈以西に延長し太平洋岸まで伸ばしました。フロリダ州についてはスペインとの間でハバナと交換をすでに済ましていました。
広大な土地を手に入れた。それを存分に活用して、世界最大の経済大国に発展していきます。
                 
        

天皇のもと民が土地を所有する国家に 明治維新   星野進保

2017/ 04/ 26
                 

戸籍法は、従来の身分毎の把握が身分をこわしたため不可能でもあり、臣民もれなくその住所を定めて把握することとし、全国を地理的に区画して戸籍区としました。そして、それぞれの区に責任者を置いて戸籍を作らせました。その責任者が戸長、副戸長です。戸の区画は市街では4、5町、農村では7、8村を基準として地方の事情を加味して適宜きめました。全国民がいずれかの戸長の管轄下に置かれました。
戸籍法のために設けられた戸長、副戸長が、漸次、県令と住民をつなぐ役割、いうなればかつての領主の意向を伝えるものとしての庄屋、名主、年寄りなどのかわりとなって地方行政上の重要な役割を果たすようになります。戸長が末端で政府を代表する役割を担うようになります。かつての庄屋、名主などをはじめ、地元の有力農民、地域の士族、維新後の藩官僚の高い地位にあった者など、これらの地方の人材が地方の実情に応じて登用され、戸籍責任者から始まって、布令の回達はじめ明治政府の末端の事務の担い手となっていきました。
1875年(明治8年)には全国8万の町村が、907の大区、7699の小区に区分されました。そして、1975年(明治8年)から1881年(明治14年)にかけて、地券の交付が全国的に行われました。地券の交付は、それまで地域によって種々の形態をとっていた(旧藩時代)土地の権利を、所有権を軸として英、仏、独などのように近代的に整理することが可能になりました。明治政府は無税であった東京府下の市街地に対して1874年(明治4年)に地券を交付しました。
こうして町の土地も、村の土地も、すべてその所有権が定められ,所有者は「法令の制限内において、自由に其所有物の使用、収益及び処分を為す権利を有する。」(民法)ことになりました。
明治政府としては、英、米などに強制された不平等条約を改正して独立を得るためには列強並みの近代的政治、経済体制を整える必要がありました。その基本的要素の一つが、土地の私的所有(他の二つの要素は民主的法治と契約)でした。
第一条 「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治する」で語りつがれている。1889年(明治22年)に宣布された大日本帝国憲法の第二章第二七条で「日本国民は其の所有権を侵されることなし」、となっています。
天武天皇の「公地公民」以来、約1200年たって、はじめて日本国民は自分の土地の所有権をもてたのです。第二次世界大戦敗戦後の1946年(昭和21年)に公布された現行日本国憲法(新憲法)の第三章 国民の権利及び義務 第二九条「財産権の保障」では、第一項で「財産権はこれを侵してはならない」、第三項で「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」、としています。財産権とは所有権をはじめ、物権に限らず債権や無体財産や営業権等も含むものであることはご承知のとおりです。帝国憲法と新憲法と内容が似ているようにみえます。
帝国憲法の憲法発布勅語で「国家統治の大権は朕が之を祖宗に承けて子孫に伝ふる所なり」という大前提のもとで、「朕は我が臣民の権利及財産の安全を貴重しこの憲法及法律の範囲に於て其の享有を完全ならしむることを宣言」しました。朕が我が臣民の権利及財産の安全を貴重し及之を保護する、つまり朕(天皇陛下)によって与えられたものです。一方新憲法の日本国憲法前文では、まず「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」として、「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する」としています。主権は国民にあって、国民の選ぶ代表者によってその権力が行使されて、国民の福祉が享受される。つまり国民による代議制民主主義(議会)で選ばれる代表者(政府)によって国民の福祉(国民の権利、義務)が享受されるということです。
国民主権による民主主義国家としての真の土地所有権が戦後に実現されました。

                 
        

年貢から地租に 地租改正   星野進保

2017/ 04/ 18
                 
地租改正は、租税国家としての近代国家の基礎をつくるとともに、その前提となる戸籍調査によって、国民国家の一員としての国民が把握され、土地の所有権者を確定しました。
明治政府は、四民平等に向けて1869年(明治2年)には農工商の身分を撤廃し、1871年(明治4年)には職業、移転の制限をはずして自由にしました。農政上では1871年(明治4年)には田畑勝手作りを許可して、米麦等主穀作物本位の作付制限を撤廃し、土地の永代売買の禁止をその翌年に解除しました。政府は廃藩置県で、従来の藩主による年貢徴収権を手に入れました。
農民は自分の土地の上で何を作ろうと何を売ろうと自由、地所の永代売買するのも、地所の質入れも自由な私有財産の所有権を手に入れました。その農民の権利を保障する裏づけとなる地券を出す基礎としての戸籍調査が1872年(明治5年)から始まりました。当時、農村人口が人口の約8割を占めていました。農民が土地に持っていた権利は、豊臣秀吉以来、徳川幕府時代に引き継がれた耕作者の耕作権でした。藩主が知行する土地の使用権でした。それを所有権として現物の土地の上に確認するためには、測量による区画の確定が必要です。そして、それによって土地所有の地券が農家に交付されることになります。
1873年(明治6年)に太政官布告と地租改正条例、同規則が同時に公布され1875年(明治8年)から1881年(明治14年)にかけて地券の交付が行われました。
地租改正の内容の骨格は次のようなものです。①課税標準を石高から地価に改める。②物納から金納にする。③税率は100分の3。④納税義務者を耕作者から土地所有者にする。
廃藩置県で土地に対する権利はなくなり、農民の耕作権という使用権が残りました。農民の耕作権が所有権に切りかわるわけです。地券は原則として従来の地租(年貢)の納入者、つまり耕作権をもつ年貢を払っている耕作者に交付されます。それが明らかでないときは、地租の納入を承認する者に交付されました。永小作人が地主から土地を買取らないと、地券は地主のものとして交付されたり、入会地が村役の庄屋に交付されるなど、後々に問題になる事例が少なからず伝えられています。
幕末には田畑の面積の約30%が、すでに寄生地主の土地になっていました。すでに見てきたように、8代将軍吉宗の頃から、豪農や大商人が開発した農地には15%の小作料が認められたり、相対承知の貸地の権利の移転によって永代土地売買の禁止がこわれてきていたことによるのです。明治維新時には、すでに大不在地主と極貧小作人の農業生産構造の格差が肥大化しつつあったのです。一方発足間もない明治政府にとっては、租税基盤としては農業からの地租に頼らざるを得ませんでした。1880年代前半まで、毎年の租税収入の8割ほどが地租に依存しました。(明治9年以降の各年度決算書)地主は多額納税者として政府にとっては大切な納税者でした。
地租改正の作業手順は次のようなものでした。①字(あざ)の境界を確定し、土地の一筆ごとに地番をふる。②一筆ごとにその面積を調査し、字ごとの図面に諸数値を記入して、検地役人の検査を受ける。調べるのは、農民の反対を避けるため、実地の調査は総て農民に任せ、その結果を官側が調査する方法をとった。③各土地について収益に応じて地位等級を定める。田畑は通常それぞれ9等で区分した。④収穫高に米価を乗じて地価をきめる。農地からとれる農作物の値段(粗収益)から種子代、肥料代、税金や村の費用などを引いて残りを農民の儲けとし、それだけの金を利子として受取るための元金がいくら必要かを計算して、その金額をその農地の値段とした。⑤地方庁に町村別収穫高及地価を決定して中央の裁可を受け、正式な地価帳を作成する。地価帳には、字、地番、地目、反別、等級、収穫、地主の住所氏名を地番順に列記しました。
戸籍調査の結果、耕地・宅地の面積は旧反別326万町歩が484万町歩となって48.7%増と、隠し田など、これまで不明にされてきた田畑が明らかになりました。また収穫高は旧石高3222万石が4425万石となって37.3パーセントの増加となりました。耕作地の所有者は603万5637人でした。(松山良三「日本の農業史」)
税率は改正前5年間の平均相場をもとに算出される土地収益力を基準に地価を定め、その3%を金納する原則でスタートしました。改正前5年平均より当年の米価が下がると農民の負担が重くなります。1874年(明治7年)まで上昇気味だった米価が、1875年には低下しました。それによる農民の負担増加や、土地調査によって隠し田が明らかになって租税負担増になったこと、政府が地租改正前に農民の負担は変わらないといっていたことなどが重なり、農民の税率引下げの要求が高まりました。政府は1877年(明治10年)に、当初の税率3%を2.5%に引下げました。
地租改正によって、地主の取分が34%、租税34%、小作人取分32%となり、地主にとっては、自作地拡大より小作地をふやす寄生地主化が進みました。総耕地面積に占める小作地の割合は、地租改正前の30%から1908年(明治41年)には45%弱にまで達しました。明治から敗戦に至るまでの日本における最大の社会問題の一つだったのが不在地主と小作農の間の争議でした。