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なぜいま「ひきこもり」が社会問題化しているのか   小榑雅章

2019/ 06/ 06
                 
5月28日朝、川崎市の登戸駅近くのバス停で、スクールバスを待っていた小学生ら計18人が、包丁を持った男に刺され。この事件で小学6年生の女子児童と、外務省職員の男性が死亡。犯人の51歳の男も自ら首を刺し、死亡した。
まったく理不尽な、許すことのできない悲惨な事件である。多くの市民が現場を訪れ、花束をささげて祈っている姿が連日報道されている。
このひどい事件はなぜ起こったのか。犯人が襲撃から十数秒後に自ら首を刺し、自殺を図ったことから、動機は「死にたかった」「死刑になりたかった」のだろう。「拡大自殺」だという精神科医もあり、それを受けて、テレビのコメンテーターたちの「死ぬなら一人で勝手に死ね、他人を巻き込むな」という発言がネットで拡散し、大きな話題になっている。
また、犯人の男は51歳の「ひきこもり」で、80代の叔父叔母夫婦と同居していたところから、8050問題が大きく取り上げられている。
この川崎の殺傷事件に続いて、農水省事務次官という超エリート官僚だった76歳の父親が、ひきこもりだった44歳の長男を刺し殺した事件が発生した。父親は「川崎の事件を見ていて、自分の息子も周りに危害を加えるかもしれないと不安に思った」という趣旨の供述をしているという。人様に迷惑をかけてはいけない、何としても家庭内で解決しなければならない、と思い詰めた結果なのだろう。
まさに8050問題だ。
これまで、引きこもりというのは若者特有の現象だと思われていて、長年、15歳から39歳までが調査対象であり、就労支援などが実施されてきていた。
しかし、内閣府は昨年12月に、40~64歳の調査をして、中高年のひきこもり者の数は推計61万人もいると公表した。 3年前の2015年に行われた15歳から39歳までを対象とした調査では、ひきこもりの推計数は54万人だった。ひきこもりはじつは若者より中高年の方が多いくらいだとわかったと同時に、全部合わせると日本には115万人ものひきこもりがいる、ということがわかったのである。
このことは何を意味しているかというと、8050問題になる。つまり、ひきこもりが若者特有の現象と考えていた時には、自分の子供のことは、親が面倒を見るのは当然だ、家庭内で解決すべきだ、という風潮だった。
しかし、家庭内でなんとか面倒を見ていた息子が、何十年もひきこもっていて、50歳になってもまだひきこもりが続くとなると、その親は80代だ。いつ亡くなっても不思議でない歳だ。50歳の息子の引きこもりの面倒は誰が見る。親が亡くならないまでも、統計上では80歳の親も認知症になったりして、親子ともどもひきこもり状態の家庭も出てくる。それはどうしようもない悲劇だ。
つまり、これまでの自己責任とか家庭内の問題という方針や施策では、何の解決にもならないのである。
ではどうしたらいいのか。
これまでの若年者に対するひきこもりの支援は、長年、子ども・若者育成支援推進法に基づき、青少年の就労支援を主軸とした労働政策寄りの施策が実施されてきた。さらに4年前の2015年4月に生活困窮者自立支援法が施行され、年令に関係なく、福祉で取り扱えるようになった。
しかし、両法律を見ても「青少年の就労支援を主軸とした労働政策」であり、「生活困窮者自立支援」の福祉対策である。
今回の2つの事件に対しては、働く場がないわけでもなく、食べるに困っている家庭でもないのだから、「就労支援」でも「生活困窮者」対策でも解決できないのではないか。
早く言えば、溺れる者に手を差し伸べるのではなく、船を探しに行っているような気がする。
特に内閣府の中高年の調査の「ひきこもりになった動機」を見ると
1.退職した 36.2%
2.人間関係がうまくいかなかった 21.3%
3.病気 21.3%
4.職場になじめなかった 19.1%
5.就職活動がうまくいかなかった 6.4%
これをみても、「就労支援」も「生活困窮者」対策では解決できない。
つまり、働きたくても仕事がない、というわけでもなく、生活に困窮しているからひきこもっているわけではないのだ。
つまり、心の問題である。
これはむずかしい。法律をつくって何とか出来るとか、建物をつくったり補助金をだしたりして解決できることではない。
この問題を考える上で最も重要なことは、なぜいま「ひきこもり」が顕在化し、社会問題化しているのか、ということだ。

*「ひきこもり」とは、国の定義では、仕事や学校などの社会参加を避けて家にいる状態が半年以上続くことを言う。ほとんど自室や家から出ない、だけでなく、趣味の用事のときだけ外出する人も含めている。またこれまでは専業主婦や家事手伝いは一律にひきこもりから除外していたが、今回から変更し、最近半年間に家族以外との会話がほぼなかったとわかる人は、「ひきこもり」に含めている。
                 
        

「国民の家」スウェーデン    星野進保

2019/ 05/ 30
                 
北欧に覇権を競ったスウェーデンが、覇権追及をやめて列強に遅れた産業革命に追いつこうと、対外的には中立政策を、対内的には産業政策化、民主化、の動きが始ったのが、カール・ヨハン14世になってからです。19世紀末には、農地改革、製造工業の推進、議会の権限強化が始められました。農村共同の三圃農法による土地、開放地、荒地などが、地主階層の区画整理によって生垣や塀などで囲われ(いわゆるエンクロージュア、土地の囲い込み)て私有地となり、多くの土地なし農民、小作人、浮浪者が追い出されました。耕作地の農業生産性は上がりましたが、多くの農民が工場などが建設され出した都市へ移りました。
1900年(明治33年)にはスウェーデンの全人口500万人のうち75%が農村部に居住していました。それが1960年(昭和35年)には、総人口800万人のうち、農村人口は27%に減少し、都市人口が73%と人口の都市部への大移動が、この60年間に起こりました。日本の敗戦後の農村から都市への人口の大移動と似ています。農村を追われた農民達は、都市へ出て職を求めるか、アメリカへわたって新しい人生を探すかしかありませんでした。
都市へ移った農民たちを待っていたのは、長い労働時間、低い賃金、劣悪な労働環境でした。住む家も夫婦と子供がひしめき合う状態でした。同時に1850年~1930年のアメリカを主とした移民数は100万人以上という統計があります。総人口500万人の5分の1です。アメリカでは独立戦争が終わり、工業開発が急速に発展し、横断鉄道が太平洋に達することに象徴されるように、西部大開発が飛躍的に進んでいました。西部が受け入れた移民の数は1860~1870年、内戦にも拘らず230万人、1870年からの10年間に300万人、その後さらに加速していったことはすでに見たとおりです。スウェーデン人を含む北欧からの移民が8割以上を占めていました。入国者の5分の4は14歳から45歳までの働き盛りでした。
スウェーデン国内における民主化はなかなか進みませんでしたが、最初の政党として「地方党」(農民の利益代表、のちの中央党)、ついで1889年には「社会民主労働党」(略して社民党)が登場しました。そして1917年には、国王による首相指名制が議会選挙による首相指名制にかわりました。議会主義の原則が確立しました。忍耐強い合意形成を大切にする政治プロセスが、この過程で伝統としてつくりあげられてきたのでしょうか。
社民党の初代党首がヤルマール・ブランディング、28歳の若さでした。政治路線として、暴力的冒険主義を排し、穏健な協調主義、議会主義、他の党との連携を大切にして、合意に基く漸進主義の革新路線を明確にしました。国際的にも労働階級を基盤とした現実的政党としてのモデルとなります。政策路線としては、企業の活発な経済活動を阻害することなく、経済発展とその成果を、国民全体に公平、公正に配分し、機会均等を追及する方向を示しました。
農民の大量な都市移転と農地改革、劣悪な都市の労働条件、大量の海外移民など、目前の課題は険悪なものでした。それだけに、ブランディングの政治路線、政策路線は国民に希望を与えたように思います。1898年(明治31年)にスウェーデン労働組合連合(LO)が労働者の全国的組織として生まれ、労働環境、労働者の地位向上のための活動を開始しました。社民党政治を支える基盤ができました。次いで1902年(明治35年)経営者連盟(SAF)が産業界の中央組織として結成され、LOともども国民全体の協調体制が前進しました。
1925年、ブランディングの死後、後継者としてアルビン・ハンソン(1885~1946)が党首となり、長期政権の首相となって社民党時代をつくりあげました。ハンソンの国民に対するメッセージは、スウェーデンを「国民の家」と表現したことです。企業には税を安くするなど、稼ぎやすい環境をつくって経済を発展させ、大いに稼いでもらいます。その稼ぎの配分は、個人的な金持がでないよう、不幸な人々も安心して生活できるよう支援します。家族が一つの家の中で皆が協力し心づかいして助け合うように、国家が一つの家のようになる“福祉国家”が「国民の家」です。教育、社会保障など、国民個々人にとってどんな環境にあっても不可欠な公共財については、個人の所得の処分にまかせるのではなく、社会全体がその供給を支える、という“福祉国家”の思想です。
                 
        

経団連会長「終身雇用は制度疲労」とのご託宣   小榑雅章

2019/ 05/ 15
                 
日本一の売り上げ30兆円を誇るトヨタの豊田章男会長(日本自動車工業会会長)は、今月13日の会見で、日本の終身雇用制度について「なかなか終身雇用を守っていくのが難しい局面に入ってきた」と述べたという。(日経)  
また経団連の中西宏明会長(日立製作所会長)は、7日の定例会見で、「終身雇用は制度疲労を起こしている。終身雇用を前提にすることが限界になっている」と持論を展開した。(朝日新聞)
トヨタも日立も、日本を代表する製造業で輸出企業だが、二人の財界トップが揃っていまごろ終身雇用が難しい、などとアドバルーンを上げるのは、どういうことなのか。企業として、早いところ終身雇用などの旗を降ろしたい、というのが見え見えである。なにをいまさら、という感じだ。とうの昔に終身雇用など有名無実になっている。
多くの日本企業がこれまで「終身雇用」とか「正社員」でやってこられたのは、企業努力とか経営者の能力とか先見性によってではなかった。1945年の終戦以後、敗戦国日本は灰燼に帰し、庶民は着るものもなく、空腹に耐えて死に物狂いで働いてやっと生き延びてきたのだ。
その日本が、大きく経済成長ができたのには、いくつも理由があるが、忘れてはならないのが朝鮮戦争である。朝鮮半島には戦前には多大な迷惑をかけてきたが、それにもかかわらず、この不幸な東西冷戦の噴火が、日本に働く場をもたらし、生産能力を回復させ、外貨を獲得させたのはなんとも皮肉だ。申し訳ないことだが、その結果、日本は敗戦から立ち直り、神武景気とかいざなみ景気とかいわれる高度経済成長に進むことができたのだ。
驚異的成長ができたもう一つの要因が、輸出である。この時期、家電製品やオートバイ、自動車などの日本製品は、どんどん海外に輸出して日本経済は潤った。経団連中西会長の出身企業日立もそうだし、松下(パナソニック)やソニーもホンダも花形企業だった。これら製品が輸出できたのは、日本製品が優秀だったからと、うぬぼれてはいけない。世の中そんなに甘くない。大量に輸出できた大きな要因は、1ドルが360円の固定相場だったからである。今は1ドル100円ちょっとだから、今より3分の1の安い価格で輸出できたのだ。このことを忘れてはならない。
朝鮮戦争とか、1ドル360円という時代や他力の力が大きかった。それを日本企業は世界一とか言われて鼻高々だった。日本で終身雇用制度がはじまったのも、この高度経済成長期だ。景気がよく、企業はもうかり人手不足だった。右肩上がりの成長を続けていたので、企業は優秀な人材を長く確保しておきたいと考え、「終身雇用」を打ち出したのだ。企業も永遠に続く。雇用も定年まで保証する。だからがんばって働いてくれ、というのが終身雇用制度だ。
オイルショックとか公害問題もありながら、この高度経済成長の幻影を、労使ともが共有できたのは、1990年のバブル崩壊までだったか。そして、この時、実際には終身雇用制度もマボロシと化していたのである。それからもう30年。マボロシも雲散霧消している。
私自身が勤めていたスーパーマーケットのダイエーは、グループ売上高4兆円を誇る日本一の小売業だったが、業績悪化し、経団連副会長をつとめた創業者の中内功は2001年に退場し、2004年から産業再生機構からの支援を受けることになって、事実上倒産した。日本一の小売業に就職し、終身雇用で一生安泰のはずだった多くの社員が職を失い、路頭に迷った。何が終身雇用だ、企業が亡くなれば終身も雇用も成り立たない。
何をいまさら、制度疲労などと浮世離れなことを言っているのだ、と言いたいが、とにかく経団連会長も白旗を上げたのである。
しかし、企業にしがみつく中年の大人たちよりも、若者たちは、とっくの昔から目が覚めている。
2012年11月に行われた大学3年生987人へのアンケート調査で、「企業に就職すれば終身雇用されると思うか」というアンケートに「そう思う」は21.5%、「そうは思わない+わからない」は78.5%だった。(第一生命経済研究所 的場康子氏)
つまり、もう7年も前から大学生の8割は、終身雇用など幻だとわかっていたのである。経団連会長が、いまごろ「終身雇用は制度疲労」などと当たり前のことを言うこと自体、時代遅れだというべきだ。あえていえば、経団連という企業集団こそ、制度疲労の象徴であり、日本経済衰退の元凶というべきではなかろうか。



                 
        

核家族先進国のアメリカでは老後の面倒は誰がみるのか  星野進保

2019/ 04/ 15
                 
核家族の経験は、わが国では第二次世界大戦後で、高齢者問題を現実の問題として対応しはじめたのはここ2、30年のことです。介護保険制度が出来たのも、ほんの15年前です。そこで、建国以来の核家族社会のアメリカの経験、19世紀末から核家族化が始り、福祉国家として高齢者問題を受けとめてきたスウェーデンの例をみてみましょう。

アメリカは年老いても子供と別居して暮らすのが原則です。私の友人の奥さんのように夫を亡くしてから実娘と一緒に暮らしている人もいますが、その長男とその嫁さんと住んでる人は少ないようです。わが国では、つい最近まで、長男の嫁さんが義理の老夫婦の介護に大変ご苦労されました。わが国では、核家族が問題視され出したのは、高齢化の急速な進行と高齢者の介護を誰がするかという、喫緊の現実問題と重なり合ったからです。核家族は、高齢者の在宅介護には能力がありません。曾ての貴族社会や武家社会の伝統のある直系家族なら対応が可能だったでしょう。しかし、すでにみてきたように、日本はもはや昔の直系家族社会ではなく、農村の長男世帯ですら、都市のサラリーマンの核家族的に変身しつつある最中です。民主化して、家族の中の父と子、母と娘をはじめ、相互の信頼と愛情は、かつての戸主の権力的統制の下でより深まっていることは確かでしょう。しかし、家族の形が、高齢者の介護に適してないのです。
わが国の介護保険制度も、すでに15年を経て、なお最適な方向を求めている最中です。
農村をとび出して都会へ出た二・三男、自作農として農村に残った長男、高度経済成長を皮切りに都市と農村の均衡を求めて、核家族を築きあげてきました。民主主義に育てられてきた70年です。戦いぬいてきた企業戦士のサラリーマンも農村のリーダー達も、子供達を立派に独立させ、穏やかな夫婦に戻った生活を味わいながら人生の終末にさしかかっています。この終末、戦争中までの直系家族より核家族の方がよりましな家族であるようにしたいものです。
ご承知のように、65歳以上高齢者のいる家族の世帯数は、平成22年(2010年)の国勢調査によると、1926万世帯で、総世帯数5093世帯の37.8%です。その高齢者世帯のうち高齢夫婦のみと一人暮らし世帯の割合が昭和50年(1975年)の20%余から、倍以上の50%に増加しています。一方、子と孫との三世代世帯の割合は17%と昭和50年の50%余から急減しています。高齢者世帯の核家族化が急速に進んでいますし、一方むかしの直系家族には戻りようがありません。
日本民族の歴史の上での初体験です。
アメリカは建国以来核家族の経験を積んできています。子供の独立と老後に子供の世話にならない生活設計の基本があります。介護保険制度や社会医療制度はなくても、民間医療保険加入や長期ケアに対する貯蓄の備えや在宅ケアの住宅の転居選択の備えはしています。不充分と批判はありますが、高齢者用の医療、医師の診察を保障するメディケア(企業と従業員が払う社会保障税で賄う)や低所得者向けのメディケイド(入院医療からナーシングホーム、在宅ケアまで広くカバー、州政府によって運営。連邦政府が全費用の50~76%負担しているが内容は連邦で差がある。財源は連邦税と州税)などがあります。
長期ケアを必要とする人たちは家族や友人のケアを受けます。海外からの移民の流入で年齢構成が急速には高齢化してないが、それでも高齢者数(65歳以上)が人口の10%をこえてきています。男性にとっては妻が、女性にとっては娘が長期介護者となります。家族の介護や公的な在宅サービスでは支えることがむずかしくなった人の多くがナーシングホームに移されます。ナーシングホームの入所者の75%が女性で、多くの場合、彼女らは夫を在宅で介護した後、自分が病気になり看てくれる者もなくナーシングホームに入ってくるのです。ナーシングホームは営利事業で、多くは巨大なチェーン企業によって経営されています。ケアの質については、議論が多いところです。こういうアメリカ型の核家族の現状を皆さんはどう見るでしょうか。
                 
        

安保法で何を守るのか、国は国民を守らない   小榑雅章

2019/ 03/ 30
                 
3月29日の東京新聞朝刊に、「国は国民を守らない」という大見出しの記事がある。
この言葉は、戦争孤児だった金田茉莉さん(83歳)の言葉だ。
「国の政策で疎開による孤児がでたのに、国は孤児たちを保護してくれませんでした。」
東京地裁で十八日にあった安保法施行3年 違憲訴訟原告で口頭弁論に立った金田さんは強調している。
「東京大空襲直後の一九四五年三月十日朝、九歳だった金田さんは学童疎開先の宮城県から東京に戻った。列車が着いた上野は一面、焼け野原。浅草の自宅は焼失し、母と姉、妹がが死亡。父は幼いころに病死しており、孤児になった。…上野の地下道は戦争孤児であふれ、大勢のこどもたちが餓死し凍死した。お金も食べ物もなく『浮浪児』になった孤児は捕まってトラックに山積みされ『収容所』に送られたり、親戚宅を逃げ出して人身売買されたり、農家で奴隷のようにこきつかわれたりした」「戦争になったら弱者は捨てられる」
私はこの記事を読みながら、あの時の自分と重なり、胸が痛くなった。あの時、七四年前のあの日、三月十日の未明、国民学校(小学校)一年生の私は、東京芝新橋の燃えさかる我が家から脱出し、母親と二人で火の海の町中を逃げまわった。体中に火の粉が降りかかり、防空頭巾は黒く焼け焦げたが、生命は助かった。この大空襲で約十万人の市民が亡くなった。そのほとんどが、なんの武器も持たないふつうの市民、非戦闘員である。多くが女子供であり、年寄りだ。この時、私の父親は、一銭五厘の赤紙で一兵卒としてフィリピンのジャングルの中にいた。そして、数カ月後に戦死し、帰ってこなかった。
この時代、政府は盛んに国防、国防、お国を守る、と叫び、国民を叱咤した。
しかし、何を防いだのか。その守るべきお国とは何だったのか。日本中焼け野原になり、国民のいのちは失われ、家も暮しもめちゃくちゃになった。国民は何にも守られていない。
金田さんが言うように、「国は国民を守らない」のである。国防と言いながら、その国の国民は全く守らない。しかも誰も国民に謝らない。国民にこんなひどいことをしながら、政策を間違えました、国民を守れませんでした、申し訳ないと誰も謝罪しない。一言の詫びもない。情けないながら、我々の指導者は無責任だ。こんな指導者たちは、また何をやりだすかわからない。正直危ない。
金田さんたちが立ち上がって、お国が決めて「施行三年となった安全保障関連法案は違憲だとする集団訴訟審理」が全国二十二の地裁で進んでいる。原告総数は七千六百七十五人。金田さんたちは、安保法によって他国を武力で守る集団的自衛権の行使に道を開いたことで「日本がアメリカの手先になって、戦争に巻き込まれる可能性が高まっている」と危機感を募らせていると、この東京新聞の記事は伝えている。
私も全く同感だ。


                 
        

鈴木昭典さんの「言わねばならないこと」

2019/ 03/ 04
                 
東京新聞が、随時掲載している特集に、「言わねばならないこと」という記事がある。
多くの識者が自らの戦争体験から、この国の進路が二度と再び過たないように、いま「言わねばならない こと」をインタビューに応じて語り残している特集だ。すでに110回を超える。
その中に、鈴木昭典さんの「言わねばならないこと」がある。それが掲載された2016年10月2日の切り抜きが、いま、手元にある。少しでも多くの方に読んでいただきたいので、その一部を再掲させていただく。
平和とは何か。私にとっては、終戦の日、ゲートルや防空頭巾を外して体が軽くなったという実体験。電気がつき、なけなしの砂糖で、家族でお汁粉を作ったという家もあった。つまり暮らしの中で、平和は絶対に必要なものなんですよ。
  日本の原点は敗戦。原爆でひどい目に遭った痛みをずっと体の中に持ち、平和路線を選択して生きてきた。しかし、平和が続き、痛みが遠くなった。平和のありがたみが薄れるのは怖い。
  現在、戦争が起こっている国の不幸を見つめながら、自分たちが不戦の憲法を持っている意味を考えるべきだが、実態は戦争国家に化けている。大国意識が強くなって昭和十年代と同じ思考になり、怖い日本の顔が露骨に出ている。
  安倍晋三首相の憲法改正の原点は、一九五五年の保守合同で生まれた自民党の党是。戦犯(容疑での逮捕)から復活した祖父・岸信介らが取り戻そうとした日本像だが、国を護(まも)る手段は武力しかないという思考だ。
     (中略)
  平和で経済成長を実現するという答えを出した日本は、世界でものすごく手本になっている。「戦争をしない国」という平和の旗を、もっと生かしていかないといけない。
  長い間、憲法を取材してきた人間として、原点に立ち返ることを伝えたい。

*鈴木さんについては、この1月21日の「ブログ埴輪」でも、闘病のご様子を同人の宇治敏彦が記しているが、それから10日も経たず、1月31日に89歳で亡くなられた。
                 
        

金沢の兼六園は自然豊かな庭園?   渡橋理恵

2019/ 03/ 04
                 
朝日新聞に「声欄」という読者からの投書欄がある。
先日、ここに「若い世代」として特に若い人からの投書を集めて掲載されていたが、その中に次のような中学生の投書があった。
「金沢の兼六園へ行きました。中へ入って、思ったのは、自然がとてもきれいで、『違和感がない』ことでした。(略)グネグネ曲がる木や丈の異なる草、風を受けて揺れる水面など、一見協調性がない自然が、総じて違和感なく見えるのはどういうことなのでしょう。(略)自分も、自然のように包み込む大きな心で生きたいと思いました。…」
  えっ、「兼六園の自然がとてもきれい」とはどういうこと。「グネグネ曲がる木や丈の異なる草」「一見協調性がない自然」そして「自分も、自然のように包み込む大きな心で生きたいと思いました」というのが結論。
 この中学生は、兼六園に自然を感じ、大きな感動を覚えたようだ。
でも、これってなにか変。
  兼六園と言えば、水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園の一つで、そのHPにもあるように兼六園は江戸時代の代表的な大名庭園として、「加賀歴代藩主により、広大な土地に、いくつもの池と、それを結ぶ曲水があり、掘りあげた土で山を築き、多彩な樹木を植栽しているので、『築山・林泉・廻遊式庭園』である。」
誰が見ても、「グネグネ曲がる木」も見事な池も、剪定された緑も自然の美しさではなく、計算しつくされた人工美だ。
 中学生が、美しいと感じるのももっともだが、これをみて「兼六園の自然がとてもきれい」というのは、どう考えても無理がある。
もし、現代の中学生がスマホの中のバーチャルな世界になれて、兼六園の美も自然のものと感じているのならば、きちんと人工美であることを教えた方がいいのではないか。
それよりなにより、不思議なのは、朝日新聞の声欄の選者は、なぜこの投稿を採用したのかだ。掲載した意図がどこかにあるのか、ずいぶん考えたがわからない。
天下の朝日新聞のことだから、われわれ世間知らずの無知な読者にはわからない深い意図があるのかもしれないが、この投書をみた中学生の仲間たちから、勘違いを指摘されて、からかわれでもしたら可哀そうだ。