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Institute of Prosocial Research

忖度などではない、武器だ。強制だ     小榑雅章

いま話題になっている森友学園騒ぎで、忖度(そんたく)という言葉が、やたらと飛び交っています。
「忖度」を辞書で引くと、「他人の気持ちを推し量ること」と書いてあります。
相手の気持ちを推し量って、「この人にはこういうことをしてもらいたいのだから、その気持ちに答えてあげなければ」と、勝手にそうして上げる、ということです。ということは、森友学園が、不当に認可され、異常に安い価格で国有財産が売却されたのは、財務省や国交省、文科省や、大阪府のお役人たちの忖度だ、ということになるのでしょう。
いつも尊大で、えらそうにしているお役人たちが、いったい、誰の気持ちを忖度しているのでしょうか。よほど怖い人、自分たちの生殺与奪の権力のある御方でなければ、お役人たちは忖度などしないでしょう。得体のしれない籠池理事長などのことなど、歯牙にもかけないはずです。その、こわーい相手は、誰でもわかっているように、安倍内閣総理大臣であります。
首相夫人の安倍昭恵先生が森友学園の「瑞穂の国記念小学院」の名誉校長なのですから、忖度して当然なのです。いまでは、名誉校長は辞任なさったようですが、こ小学校設立が認可され、国有地が格安で認可される異常な過程では、安倍昭恵名誉校長の時期でした。
安倍首相は、一切関与もしていないと明言しています。相手が勝手に思ってやったことは、知るはずがない、止めることもやめさせることも出来るはずがないではないか、と開き直っています。
国会でもここは押し問答で、自分は何ら関与していないと言い張る首相は、胸を張っています。
前置きが長くなりましたが、ここで申し上げたいのは、じつはこの点なのです。
忖度などと、わけのわからないあいまいな言葉で追及しても痛くもかゆくもないから、平気で胸を張って強弁していられるのです。
しかし、社会心理学からみたら、この状況は、「忖度」などではないということです。名誉校長安倍内閣総理大臣夫人という肩書は、武器なのです。ぐさっと刺す槍や刀なのです。
「影響力の武器」というベストセラーを著したロバート・チャルディーニという社会心理学者は、私たち人間は、「無意識のうちに影響力の武器を利用し、決断を下してしまう」と言っています。武器として、6つ上げていますが、その中の一つとして、「権威」を挙げています。
権威とは、何らかの理由によって相手を「権威がある」と判断すると、その人の発言に対して、従ってしまうという性質の事です。飛ぶ鳥を落とす勢いの首相には逆らえないのです。
またB.H.レイブンとJ.R.Pフレンチは、相手を言いなりにさせるパワーは、「その人が自分に対し影響力をもっていると認識をしたら発生する」と発表しています。
自分の昇進か左遷かを決める権限のある人の意向に背くようなことはしないのは当たり前です。わざわざ心理学を持ち出すまでもない、当たり前のことです。関与しようがしまいが、名誉校長が安倍内閣総理大臣夫人という肩書そのものが、パワーであり武器なのです。
まだ何年も権力者でありつづけそうな長期政権のワンマンのご意向を無視したら、たちまちやりに串刺しにされるかもしれない、怖い相手です。
安倍さんは、自分のその力を知っているからこそ、平気でうそぶいて強弁しているのです。その安倍政権を国民の多数が支持していると言う現実が、じつはいちばん怖い、こわいです。

創価学会は牧口初代会長に顔向け出来るか    小榑雅章

戦後70年以上も、私たちは新憲法のもとで、主権在民の民主主義を貫き、自由に暮らしてきました。その自由が脅かされています。
いまの安倍政権がゴリ押ししようといる共謀罪には、絶対反対です。
戦前、治安維持法というひどい法律のために、日本には、思想の自由も集会の自由も信教の自由もありませんでした。政府や軍事に批判的な言辞や集会や、個人の考えまですべて統制管理されていました。
アタマの中で、「こんな戦争はもういやだ、はやくおわらないかなあ」と一人秘かに考えることは出来ても、うっかり他人にしゃべったりして、お上に漏れたら、治安維持法違反でたちまち監獄に入れられました。共謀罪は、まさにその治安維持法なのです。共謀罪が評判が悪いので、政府は急きょ「テロ等準備罪」と名前を変え、テロ対策だと、治安維持法ではないと取り繕っていますが、明確に治安維持法です。
その「テロ等準備罪」は、昨日21日に閣議決定されました。
今日22日には、自民党の二階俊博、公明党の井上義久両幹事長は今国会の成立を目指す方針で一致したと報じられています。
創価学会を支持母体とする公明党は、本気でこの法律を通すつもりなのでしょうか。
創価学会は、治安維持法の下、どれほど思想・信教の自由を迫害されてきたか、その迫害の歴史を創価学会自身のホームページに、つぎのように記しています。
「戦争に突き進む日本の軍部政府は、昭和10年代後半から、本格的に思想の統制に乗り出し、やがて、国家神道を全国民に強制するという暴挙に出ます。 
牧口会長は、これに真っ向から抵抗。各地で活発に座談会を開催し、軍国思想を堂々と批判し、仏法の正義を説き続けたのです。迫害は必至でした。特高警察は、1943(昭和18)年7月6日、牧口会長・戸田城聖理事長をはじめとする創価教育学会の幹部21人を治安維持法違反・不敬罪の容疑で逮捕、投獄したのです。
真冬に暖房もない極寒の独房、栄養失調になるほどのわずかな食事、連日の厳しい取り調べ――それでも牧口会長は、信念を曲げることなく、不屈の闘争を貫きます。しかし、牢獄での過酷な日々は、70歳を超えていた牧口会長の体を確実にむしばんでいきました。
1944(昭和19)年10月13日付で獄中から家族にあてた手紙。『三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです』との、信仰への確信にあふれた言葉が、牧口会長の絶筆になりました。1月後の、11月18日。牧口会長は獄中で亡くなります。73歳でした。
多くの宗教者や思想家が、迫害に屈して軍国主義を賛美した暗い時代にあって、牧口会長が貫いた不屈の”精神“は、いまなお、不滅の光を放っています」http://www2.sokanet.jp/download/kofushi/chronicle11_01.pdf
公明党や、創価学会の人々に問いたい。
牧田初代会長、戸田城聖理事長をはじめとする創価教育学会の幹部21人を治安維持法違反・不敬罪で投獄された、迫害の歴史を無視して、いま、治安維持法と同じ共謀罪「テロ等準備罪」法を成立させていいのですか。

第4部  国民国家を追いかける   星野進保

天皇の治める国土に還る

土台のこわれた徳川幕府
幕府体制の土台が目にみえてこわれ始めるのを見せてくれるのが、1841年(天保12年)の老中水野忠邦の「天保の改革」です。同年に、11代将軍の家斉が死去しました。年貢を引上げることなく、貨幣の悪貨への改鋳で幕府財政の半分を賄って「文化・文政時代」という元禄時代に匹敵する華美な時代をもたらした将軍です。水野忠邦は、これを機に「文化・文政時代」のゆるみを締めて、かつての吉宗8代将軍の「享保の改革」にもどそうとしました。吉宗が検見取法から定免法に年貢の算定法をかえたのが1721年(享保6年)ですので、それから約120年、そして幕府の大政奉還の上表1867年(慶応3年)まで、あと26年という時点での改革でした。水野のスローガンは“享保、寛政の精神にもどれ”でした。
例によって、まず質素、倹約、贅沢の禁止をはじめます。初ガツオなど初物禁止、着物のほかいっさいまかりならないなど大変きびしいものでした。当然商店の売上げもへり、町は不景気になりました。江戸で物価が高いのは、かつて価格上昇を看視するため吉宗がつくった、問屋、仲買、組合などの株仲間があるからだと、株仲間を結ぶことを禁止して独占権をなくすことで、自由に物資が動けば、物価が下がると考えました。これに対して諸藩の専売制のために物価が上がるのであって、株仲間の解散はかえって商品流通を妨げるという意見もありました。しかし専売制はもはや重要な財源になっているのでとても手をつけられる状況にはありませんでした。幕府は新たに「諸家国産類取扱方禁止令」を出し、諸藩の国産品専売制を禁止しました。こうして諸藩大名達とも対抗しましたが、諸藩の多くは禁止令を無視しました。
幕府の土台の重要な柱の一つが健全な財政です。藩領の年貢収入の回復が最大の課題でした。吉宗の定免法も、それまでの検見取法が検見役人達の収賄によって年貢率が低くなったことに対する、税収を増やす新手法でした。吉宗時代には年貢率がもどりましたが、その後の年貢収入は、1744年(延亨元年)の吉宗時代最後の年の180万石を最高に、1836年(天保7年)には104万石と、58%に落ち込んでいます。そこで、年貢収入回復のために、年貢率を毎年一定にしている村の収穫量の調査を命じました。(1843年 天保14年)その実施のため幕府の役人を投入して大幅な年貢の増収を図ろうとしましたが、村の代官はじめ名主達から反発され、その上、百姓一揆が方々で起こりました。開発新田の年貢を低くして開発させたり、小規模な土地には年貢をかけないとか、吉宗時代の定免法導入以来の長い間に築きあげられた慣行があり、それを急に変更しようとしても、効果があがりませんでした。地方の役人はじめ百姓まで、言うことを聞かなくなったのです。
もう一つの土台としての重要な柱が、大名を領地替えする権力です。江戸時代後半には、領地替えはほとんどありませんでした。1840年(天保11年)天保の改革の前年、家斉の下で、幕府は、庄内藩酒井氏を長岡に、越後長岡藩牧野氏を川越に、武州川越藩松平氏を庄内に同時に転封することを命じました。諸大名の国替(くにがえ)です。藩から転封費用負担を命ぜられた庄内藩の百姓が、この領地替えに反対で、一揆を起こしました。数万人の大規模の集会が藩内でくり返し行われ、江戸での直訴も行われました。転封をのぞまない庄内藩は百姓への転封費負担を撤回しました。家斉の死去もあって、この三藩の同時転封は撤回され、一揆勢も軽い処分ですまされました。藩と百姓両者の言い分がとおり、百姓が大名の転封に影響を与えた一揆でした。幕府の創業期には簡単にできた転封が、天保期には転封のむずかしい外様大名でなく、譜代大名ですらむずかしくなってきたのです。幕府の知行を与える支配者としての実力が減退し、将軍と大名の上下関係がこわれはじめたといえます。
1843年(天保14年)の上知(あげち)令撤回はそのきわめつきでした。老中主座水野忠邦は、江戸、大坂の十里四方内(大阪は五里四方という説もある)にある大名、旗本の領地を幕府の直轄地に上知(ださせる)させ、代替地に転封するという命令を出したのです。将軍の命令というだけで説明がありませんでした。上知令の対象はほとんど譜代の小藩、旗本でしたが、年貢率の高い所領から年貢率の低い代替地への転封に、強い反撥がおきました。長い江戸時代の平穏の中で、先祖が武功によって与えられた領地を、特段の罪もないのに所替などはされないという領地意識になってきていたのでしょう。一部の老中の領地もその中に入っていることもあって、幕閣まで反対するようになりました。藩主や旗本が村から借金して年貢の先納をしたり、古い借金の返済を知行地の村が引請けたり、村方に領地の経営権が移っているなど、藩主、旗本の百姓、村々の間には複雑な借り貸しの関係ができあがっているので、上知の影響は百姓の貸金即時返金を求める運動にまで及びました。上知令は同年9月に撤回され、水野忠邦は老中をやめさせられましたれ。

庶民が浮かれ 幕府、大名は金づまり     星野進保

第5代綱吉(1680年 延宝8年~1709年 宝永6年)の時代は、まさに高度経済成長の絶頂期だったように思います。後に総理大臣になられた福田さんが、昭和40年代のオイルショックの起こる前の高度経済成長を「昭和元禄」と、その浮かれぶりを批判したのと、私には重ねあわせになります。綱吉時代というと、「生類憐の令」(子供を幼逝させた原因は前生に殺傷したからと、自分の戌(いぬ)年にちなんで20年間もイヌの殺傷禁止令を出して庶民を悩ませた)や、大石以下の赤穂浪士の吉良邸討入り(年末になると今でも年末TVの定番となっている)が、突出した話題ですが、庶民の豪勢な生活ぶりが次のように描かれています。「読売新聞社、日本の歴史 8 士・農・工・商」から勝手に引きぬかせていただきます。
興隆期の町人の豪勢な生活の営みをみると、遊里花街が栄え、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町など元禄時代には、武士にかわって町人の廓通いが盛になり、昼は極楽、夜は竜宮のように賑い、諸国の珍味にしても最上のものがどこよりも早く運ばれ、他人が百金を払えば、自分は千金を投げ出すのを誇りにしたと伝えられています。武家や富豪が外食するようになり、専門の料理屋や仕出し屋があらわれました。明暦の大火(1657年 明暦3年)後には、浅草寺の門前に、茶飯、とうふ汁、煮しめ、大豆などをととのえた奈良茶という一膳飯屋が登場しました。庶民の食事生活も日に三度がふつうになり、飯もナベ、カマでたき、今日とかわらないようでした。ただ農民は米を食うことができず、麦やヒエ、ダンゴやメン類を食べていたようです。江戸には塩瀬、虎屋など幕府や大名の御用達の菓子屋がすでにありました。
年中行事も京都の祇園会、大阪の天満祭、江戸の神田祭も宗教的なものから町人の楽しみになっていきました。物見遊山も、円山、天王寺、上野が名所でしたが、各地で、士農工商入り交じって泰平そのもののようでした。
俳句の芭蕉、浮世草子の西鶴、歌舞伎の藤十郎、浄瑠璃の戯曲作家近松門左衛門、浮世絵「見返り美人」の菱川師宣、3代将軍家光が祖父を尊敬して「家康」を描かせた狩野探幽、「燕子花図」(かきつばたず)の尾形光琳など、日本史の中でも圧倒されるような絢爛豪華な時代でした。
このような庶民の賑いに対して、5代将軍綱吉の後半頃、いわば元禄の賑いの最中には、幕府、諸藩の財政が逼迫しはじめていました。先にもふれましたように、第6代将軍家宣の下で幕政を担った新井白石の頃に、年貢米の総生産石高に対する比率は30%程度になっていました。およそ5公5民(百姓の取分と領主の取分が半分づつ)という徳川幕府発足時のそれに比べると、大巾に下がっていました。幕府の財政も各藩の財政も、第5代将軍の後半期から逼迫し始めた理由は、大きくいえば、一つにはこの年貢比率が低くなったことですし、元禄の世相もあって出費が重んだことです。さらに各藩主にとっては、1年おきの参勤交替や、妻子を江戸に置くことからの出費が重なったことでした。
第4代将軍家綱時代には、本丸の天守閣にあった金銀は、貨幣にして400万両以上でしたが、1661年(寛文元年)になるまで手をつけられていませんでした。その後幕府からの大名や旗本の拝借金が家綱の晩年になると急速にふえ貯蓄が減り出しました。5代将軍綱吉時代には、綱吉の浪費も重なり財政は窮乏していきました。天領にした当時(1600年初)の佐渡鉱山も、この頃には産出量が当時の10分の1も出なくなってきていました。元禄以降の幕府財政にとって、貨幣改鋳(品位改悪)は財政赤字補填の重要な役割を果していきます。
支配者階級の大名、武士たちの生活が貧しくなり、働く農民、商人達の余裕の出だした生活が豊かになり出す逆転が始まりだします。
ものの本には「下級の武士の内職は常識となり、内職の種類はちょうちん張り、かさ張りなど種々様々」(「世事見聞録)」といわれています。大名は都市の両替商、大商人、あるいは農村の豪農からの借入れで藩財政の赤字をしのぎます。そして働かない大名・武士の幕藩体制のきしみの断末魔の叫びが、年貢の引き上げに対する農民・町民の百姓一揆や打ちこわし、そして大名達の巨額の借金の踏み倒しの頻発となっていきました。
幕府は、今や旧来の体制(石高制)のままでは、経済・市場の力に対抗できなくなりました。にもかかわらずこの転換期に旧体制の手なおしで立ち向かったのが8代将軍吉宗だったように思います。

花森安治仕事展    小榑雅章

poster

これは、「花森安治の仕事」展のポスターである。
花森安治美術展、でもなく、表紙画展でもない。仕事展とは奇妙だが、暮しの手帖編集長として、雑誌はもとより、自身発行したすべての出版物の表紙も装丁も、挿絵もデザインも、広告も、ぜ~んぶ自身で手掛け制作した。この美術的才能だけなら他にもおられるだろうが、花森さんは、企画から取材、インタビュー、写真、文章、見出し、レイアウト、翻訳、経営・・・、あらゆることに真剣に、その卓越した才能で取り組んだ。その結晶が暮しの手帖だった。
だから美術展でもなく、表紙画展でもなく、仕事展になった。
この展覧会には、花森さんの少年時代から、松江高校、東大、兵隊、大政翼賛会時代の資料もたくさん展示されて、その数740点になるという。展示には、私もいろいろ協力したが、知らないことや、はじめて目にする貴重な資料がたくさんある。
ご興味がおありでしたら、ぜひご覧いただけたら幸いです。
花森安治の仕事展 
世田谷美術館 2017年2月11日から4月9日(月曜休館) 入場料1000円)
   碧南市藤井達吉現代美術館 2017年4月18日から5月21日
   高岡市美術館 2017年6月16日から7月30日
   岩手県立美術館 2017年9月2日から10月15日
なお、世田谷美術館で、講演会があります。
 3月11日(土)14時から15時30分 「父・花森安治のこと」 土井藍生(花森さん
          のご長女)
 3月18日(土)14時から15時30分 「花森安治の暮しの手帖」 小榑雅章

モノ、カネ、ヒトが全国を結ぶ情報流通網    星野進保

鎖国体制が固まると、内需が円滑に流れるような商品流通に力を入れます。それが大阪を中核とした全国の商品流通でした。その代表が“米”です。大名達は大阪に蔵屋敷を建て、年貢米その他の産物を貯蔵し、仲売人達の入札で売りさばき、その収入が藩の財政はじめ主要な用途に使われていくという仕組になっていきました。蔵屋敷の数は1670年代には90を超えていたようです。そして淀屋橋のあたりにあった米市場が、1688年(元禄元年)堂島が開発されたその新開地で、元禄になって堂島の米市場として開設されました。大阪の人口は先にみたようにふくれ上がりました。
片や江戸も、利根川の川筋付替工事が、1654年(承永3年)に始り南関東の人口増加が加速されました。さらに、1670年(霊元10年)には河村瑞堅賢による海の東廻りと西廻り航路が開通しました。従来危険をはらんだ海上輸送船(廻船)の安全、安定した航路が確保されたのです。馬一頭が2俵の米を、人間1人なら1俵の米しか陸上では運べなかったのが、海上では、10人前後の人数で200石から400石の荷物を安全に、江戸、大阪間を、早いものだと20日あまりで運びました。かつては沈没、破船の危険をこえて、最悪の場合は一年もかかるという航海でした。航海に適する季節の制約はありましたが、米をはじめ重量・大量の輸送の革命でした。そこに菱垣廻船と樽廻船の二大廻船が、それぞれ200~400石積みの船を200隻前後もって激しい競争をしたのです。大阪の米市場に運ばれる米はほとんど海上輸送で、陸奥(福島)、出羽(山形)の幕領米はじめ、それぞれ大阪へ東回り航路、西回り航路で運ばれました。
どこかで荻生徂徠が“元禄の頃から銭は日本国中にゆきわたった。村をまわる乞食、ものもらいでさえも、銭をもらい歩く”と書いていたことが思い出されます。元禄時代には貨幣経済が米経済に勝ちだしていたのです。蔵屋敷の米も、仲介人の入札で値段がきめられ、お金で支払われるようになり、廻船の運送料も、その輸送の早さ確実さサービスの良し悪しを含めた料金で、菱垣と樽の間で競われたのでしょう。
つまり、市場経済が幕府の命令による指令経済をしのぎ始めていたような気がします。
経済の仕組みが変ってくると、経済を動かす主役達も交替していきます。例えば、各国の大名や家老達は、廻船を使って直接大阪の蔵屋敷に産米を送り込む方が有利なことを知ります。それまでは、朱印船を兼ねた主要港、堺や福岡のような大豪商や御用商人に頼むか自分で船をもつかしないとならなかったのが、自分の船や、各地の豪商の力を借りなくてもすむようになりました。商業と物流が分離し、それまでの船持ち大豪商達にとっては大打撃となりました。豪商の傘の下で商業をやってきた商人達が豪商の支配する産物の特権に挑戦し出します。大名達も自国の生産物を大阪に結びつけようと、自国の特産物を城下町の商人に独占的売買の権利を与え、大阪の商業と結びつけるようになります。各大名の足下でも、かつては領主に役立った御用商人にかわって、商品の売買の能力のある商人や問屋が登場してくることになりました。
三大都市を核として全国の商品、情報が集まり、安定した廻船で全国の流通が発達し、各国の経済は活性化しました。まさに高度経済成長期です。

政都 江戸-商都 大阪-文都 京都 日本列島の軸   星野進保

江戸時代の経済・流通は、まさに政治・行政の新首都、一大消費地の江戸を中心に、商業・流通拠点の大都市大阪、平安朝以来の伝統工芸・技能・寺社を誇る文化首都京都の三大都市の大幹線と、それをつなぐ東・西の海の大量輸送を可能にした廻船航路の開発に起爆されました。
徳川家康は、江戸幕府を開くとともに、戦乱で離散した町人を大阪へよびもどし町をつくらせました。第3代将軍の家光の頃には大阪の町はできあがってきました。1635年(寛永12年)に参勤交代の制度が将軍家光のもとで定まりました。幕藩体制が固まった一つの指標となります。大阪の人口が1633年(寛永10年)に約28万人、1689年(元禄2年)に33万人、第8代将軍の吉宗時代の1720年頃(享保6年頃)約40万人と大巾に増加しました。京都は、1634年(寛永11年)に約40万人、京都の人口は以後も大きな変化がありません。江戸は、18世紀の初め(1700年代の初め)大阪の約3倍の100万人で、その半分が武士とされてきています。武士の数は、明確に統計としてはありません。同じ頃名古屋、金沢という大きな大名の城下町でも10万人程度と伝えられていますので、100万人というのは、そうだとすれば巨大な都市です。よく比較されるパリ、ロンドンが50万人程度だったようです。ただ、100万人を超えるのが、庶民50万人余に20~30万人程度の武士及その家族、家来が加わるにしても、大きな都市だったことはたしかでしょう。鬼頭先生の日本列島の地域人口によりますと、(前掲「人口から読む日本の歴史」)南関東の人口は1600年(慶長5年)から1721年(享保6年)には、1304千人が3938千人へ約3倍になっています。畿内も、2284千人から2699千人へと1.2倍になっていますが、江戸を含む南関東の人口の増加がすさまじいものだったことが認められます。畿内は大阪の急速な復興によって、南関東は、参勤交替による人為的な諸大名の江戸屋敷への家族(正妻と嫡子)と家来衆の集住と、利根川、江戸川改修(1653年 広永3年)による江戸周辺村落の大開発による小百姓の増加など、新都市江戸と周辺農村の大開発によるものでしたが、南関東の増加はすさまじいものだったようです。江戸の半分以上が武家屋敷になりました。江戸は、諸大名の「公儀」と徳川「家中の拠点」が政治首都を形づくりました。江戸屋敷は各大名にとって本宅となります。大名の治めている本国は国許(もと)となります。大名一家の生活や諸大名間との交際、各種儀礼などを含め大名屋敷の規模が拡大し、質が充実していきます。中屋敷、下屋敷の増設、それに伴う膨大な家臣団と武家奉公人達の集住が起こりました。江戸庶民50万人の消費需要を倍にする以上の巨大な消費都市となっていたことはたしかでしょう。平安時代以来、京都で禁中、公卿が費した消費需要をはるかに上回る需要だったと推定されます。京都からの家具調度、衣装などの高級・伝統的なものから多種多様な商品が大阪の市場を通して江戸へ送られました。大阪は江戸という大消費地の台所となって、鎖国で閉ざされた外国貿易の外需にかわり、日本国内の内需を円滑化する流通市場都市となったのです。
徳川家康は関ヶ原の勝利ののち、ルソン、アンナンカンボジヤ、シャムなどに、国内を平定したことと、無免許の私貿易や海賊船と区別して、家康の朱印を押した朱印船制度を設けたことを通知し、各国から歓迎されました。30年ほど朱印船貿易をし、生糸の輸入と銀の輸出が主要輸出入品になりました。堺や九州の商人さらに大名達が海外貿易にのり出しました。海外貿易で外様大名などがもうけることは、政治的、軍事的にのぞましくありません。そこで幕府の体制がととのうのにしたがって、大名が海外に船を出すのを認めなくなり、1612年(慶長17年)以降大名の朱印船はなくなりました。全国的に流通し、日本では未だできなかった生糸などの輸入物資を一手に幕府がおさえ、日本国内の流通を管理下におこうという意図でした。鎖国政策がとられたのは、キリシタン問題と重なっていますが、幕府の経済管理の必要からでもありました。
家康の基本方針であった、戦国時代を凍結して、泰平の世を作るには、まず海外からの通商や宗教による攪乱を防ぐこととなったのです。参勤交替制が整って国内統治体制ができあがったその年に(1635年 寛永12年)、日本人の海外往来禁止、外国船の渡来を長崎に限りました。翌年には長崎の出島が完成しています。外国貿易に、大名や堺や九州の商人達は関われなくなりました。物資の流れは、当然国内、内需中心になります。その内需の最大の物資が、“米”でした。江戸時代のはじまりには、その経済的基礎は“米”でした。そして大名の配置、序列や武士の扶持(ふち 給与)などは石高が尺度となって、社会がなり立っていました。耕作権を与えられた小百姓が家族で汗水たらした農業から米を中心とした現物の年貢を領主が多くとりたてる関係が当時の経済が回る出発点でした。そのための兵農分離、士農工商の身分制でした。1643年(寛永20年)には田畑の百姓による永代売買が禁止されました。所有権は領主(最終的には事実上は将軍)にあることを明確にしたものです。
領主達は、米を中心とする生産物を年貢として取り、(5公5民なら領地の生産物の半分は領主に年貢で入ってくる)その年貢を他の必要物資と交換しなければ生活ができません。そこで領外へ生産物を売り出さねばなりません。まず頼りにしたのが、琵琶湖畔の坂本・大津、瀬戸内海の堺・尾道、日本海の小湊、敦賀、三国、太平洋岸の桑名・四日市・九州の博多などの港町を中心とした都市でした。そこには中世から発展してきた大きな商人達がいました。船をもって大量の物資を運送できる豪商達が大名達と結びついていました。この大商人達は幕藩体制が成立するために大いに役立ったのです。

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向社会性研究所
代表 星野進保(ほしの しんやす)
主任研究員 小榑雅章(こぐれ まさあき)
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mkongipr@gmail.com
    

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