FC2ブログ
        

鈴木昭典さんの「言わねばならないこと」

2019/ 03/ 04
                 
東京新聞が、随時掲載している特集に、「言わねばならないこと」という記事がある。
多くの識者が自らの戦争体験から、この国の進路が二度と再び過たないように、いま「言わねばならない こと」をインタビューに応じて語り残している特集だ。すでに110回を超える。
その中に、鈴木昭典さんの「言わねばならないこと」がある。それが掲載された2016年10月2日の切り抜きが、いま、手元にある。少しでも多くの方に読んでいただきたいので、その一部を再掲させていただく。
平和とは何か。私にとっては、終戦の日、ゲートルや防空頭巾を外して体が軽くなったという実体験。電気がつき、なけなしの砂糖で、家族でお汁粉を作ったという家もあった。つまり暮らしの中で、平和は絶対に必要なものなんですよ。
  日本の原点は敗戦。原爆でひどい目に遭った痛みをずっと体の中に持ち、平和路線を選択して生きてきた。しかし、平和が続き、痛みが遠くなった。平和のありがたみが薄れるのは怖い。
  現在、戦争が起こっている国の不幸を見つめながら、自分たちが不戦の憲法を持っている意味を考えるべきだが、実態は戦争国家に化けている。大国意識が強くなって昭和十年代と同じ思考になり、怖い日本の顔が露骨に出ている。
  安倍晋三首相の憲法改正の原点は、一九五五年の保守合同で生まれた自民党の党是。戦犯(容疑での逮捕)から復活した祖父・岸信介らが取り戻そうとした日本像だが、国を護(まも)る手段は武力しかないという思考だ。
     (中略)
  平和で経済成長を実現するという答えを出した日本は、世界でものすごく手本になっている。「戦争をしない国」という平和の旗を、もっと生かしていかないといけない。
  長い間、憲法を取材してきた人間として、原点に立ち返ることを伝えたい。

*鈴木さんについては、この1月21日の「ブログ埴輪」でも、闘病のご様子を同人の宇治敏彦が記しているが、それから10日も経たず、1月31日に89歳で亡くなられた。
                 
        

金沢の兼六園は自然豊かな庭園?   渡橋理恵

2019/ 03/ 04
                 
朝日新聞に「声欄」という読者からの投書欄がある。
先日、ここに「若い世代」として特に若い人からの投書を集めて掲載されていたが、その中に次のような中学生の投書があった。
「金沢の兼六園へ行きました。中へ入って、思ったのは、自然がとてもきれいで、『違和感がない』ことでした。(略)グネグネ曲がる木や丈の異なる草、風を受けて揺れる水面など、一見協調性がない自然が、総じて違和感なく見えるのはどういうことなのでしょう。(略)自分も、自然のように包み込む大きな心で生きたいと思いました。…」
  えっ、「兼六園の自然がとてもきれい」とはどういうこと。「グネグネ曲がる木や丈の異なる草」「一見協調性がない自然」そして「自分も、自然のように包み込む大きな心で生きたいと思いました」というのが結論。
 この中学生は、兼六園に自然を感じ、大きな感動を覚えたようだ。
でも、これってなにか変。
  兼六園と言えば、水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園の一つで、そのHPにもあるように兼六園は江戸時代の代表的な大名庭園として、「加賀歴代藩主により、広大な土地に、いくつもの池と、それを結ぶ曲水があり、掘りあげた土で山を築き、多彩な樹木を植栽しているので、『築山・林泉・廻遊式庭園』である。」
誰が見ても、「グネグネ曲がる木」も見事な池も、剪定された緑も自然の美しさではなく、計算しつくされた人工美だ。
 中学生が、美しいと感じるのももっともだが、これをみて「兼六園の自然がとてもきれい」というのは、どう考えても無理がある。
もし、現代の中学生がスマホの中のバーチャルな世界になれて、兼六園の美も自然のものと感じているのならば、きちんと人工美であることを教えた方がいいのではないか。
それよりなにより、不思議なのは、朝日新聞の声欄の選者は、なぜこの投稿を採用したのかだ。掲載した意図がどこかにあるのか、ずいぶん考えたがわからない。
天下の朝日新聞のことだから、われわれ世間知らずの無知な読者にはわからない深い意図があるのかもしれないが、この投書をみた中学生の仲間たちから、勘違いを指摘されて、からかわれでもしたら可哀そうだ。
                 
        

農作業の“ユイ”がなくなった   星野進保

2019/ 03/ 02
                 
さらに重要なのは、兼業化に伴って村落での民主化が進んだことです。
土地保有の多少による序列はなくなった。日常生活は同じ様になってきているし、昔は地主や本家の世話になって食べていたのが、今では五反の農家でも、オヤジと息子が勤めに出て、日曜日に百姓をレジャーのように機械でできる。へたな専業農家より経済的に安定し気楽だといわれています。農家の間に土地保有の差別(例えばかっての五反百姓といった蔑視)がなくなったということです。(河北新報 むらの日本人)村落の民主化がとことん進んできているのです。
嫁としゅうとの関係が変わった。
「いまのおしゅうとさんは嫁時代には、おしゅうとさんに“はいはい”とつとめてきた。いまは嫁も外へ出て働くのが普通になっていますね。日中は近くの企業に出て行って、夕方に帰って(しゅうとに)顔を合わせるだけに(人間関係)がむずかしいことはなくなってきている。50歳代のお母さんは一番かわいそうですよ。おしゅうとさんが昔のようなしきたりをもち出すと、かわいい息子まで引っぱって逃げ出されかねない。いまだと、どこへ行っても若夫婦で暮らせるという自信が若い人達にはありますからね。」
家族の生活がバラバラになる。
「昔は大家族だったけど、いまは同じ家でも、子供部屋、老人部屋、若夫婦部屋とか、皆個室をもつようになった。昔は大きな部屋にベラッといたのにね。子供は学校から帰ってくると、自分の部屋に行って勉強しているとか、テレビを見てるとかしている。年寄は年寄で、若い人の邪魔になんねえようにコソッとしている。朝なんか勤めの人とか、学校へ行く子供とか、いろいろだからよほどの家でなけりゃ朝食一緒に食べられねえ。二回、三回バラバラに食べて行くてのが現状。家族一人一人別々になってきたこと、私、ハダで感じるんだね。」
むらと部落の仕組がこわれた。
「むらの中に農作業の“ユイ”というのがなくなったんやな。田植だとか稲刈りだと“ユイ”でやるべ。そっすると昔は家からおにぎりだ、赤飯だ、田んぼに持っていって、あぜ道で皆でおしゃべりしながら食べたのが、うんと人間関係を結びつけたんだね。今は機械だから、田植でも自分の家だけでよその人頼まなくても、3、4日で終わって、すぐ出稼ぎに行っちまうべ。そすっと、農村も悪いことばかし都市化してきたんだべけど、隣で何やってんのかわかんねえし、話し合いの場がなくなってきたんやね。」
地域集団から目的集団へ変る。
「部落の明治28年から続いた若者契約講などなくなって、葬儀の段取りなども葬儀屋がやり村の人が段取りすることもなくなった。片や養豚グループというようなのは、少しくらい離れていても経済面につながる勉強会なら間違いなく40~50人集まる。」
このような都市化の流れは、かつての地主・小作時代や“家”の制度を体験している年長者からみると、現代の農村は次のように写るようでもあります。
“農民の土地に対するとらえ方は、今までとはだんだん変ってきているんじゃないか。例えば農地解放なんかで苦労しないで手に入れた土地だから、今のように“虫食い”(農村のスプロール。例えばパチンコやホテルが農村に入りこむ)を許してしまっているんじゃないか。ハダに感じる変化は脱農家意識。それにカサカサした人間関係、が残念です。もう一つは家族の民主化、そして家督権という戸主権力の低下。また大家族の核家族化への変化です。農村でも今は、長男に嫁をもらえば別居しますからね。さらに生活の平均化がみられますね。これが一番のちがいでしょうね。田んぼは何町歩、山何町歩あるといったって、資産は別にして、毎日の生活ではある人もない人も全然変りないんです。”
                 
        

沖縄の県民投票は日本全体の問題だ   小榑雅章

2019/ 02/ 20
                 
「24日に沖縄で県民投票が行われるそうだね」
「それなんだが、投票なんてけしからんよ。日本を守るために沖縄の基地はどうしても必要なんだ。お国のためなんだ。沖縄の連中がぐずぐず言うなんてどうかしてるよ」
電車の中でこんな声が聞こえてきた。歳のころは30歳後半か。分別ありげなサラリーマン二人だ。
「沖縄はわがままでけしからん」という。お国のためだ、がまんしろ、という姿勢だ。
ちょっと待て。「日本のため」「お国のため」というそのセリフ、苦い記憶がある。
太平洋戦争で、日本軍はフィリピンでの戦いで敗れ、その後も太平洋の島々に配置され日本軍は次々に敗れ、どんどん後退。日本本土に迫ってきていた。本土防衛のための絶対国防圏と決められた太平洋のグアム島、サイパン島などのマリアナ諸島防衛線も、日本軍はことごとく敗れ去った。1944年7月だ。
当時の米軍の大型爆撃機の航続距離からすると、大量の爆弾を積んでの距離は、最大で3000キロ。グアムに米軍の航空基地が出来ると、日本本土、帝都東京への空襲が可能になった。日本中の都市はつぎつぎに空襲され、1945年3月10日の東京大空襲となった。
米軍は空襲だけでなく、日本本土へ上陸し直接の地上攻撃を目指していた。
その手始めが沖縄である。
沖縄市のレポート「沖縄戦の実相」にはこう記述されている。
「沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われました。沖縄守備軍(第32軍)の任務は、南西諸島を本土として守りぬくことではなく、出血消耗によって米軍を沖縄に釘付けし、国体護持・本土決戦に備えることでありました」www.city.okinawa.okinawa.jp/sp/heiwanohi/2524/2526
沖縄戦は沖縄を守ることではなく、「国体護持、本土決戦のための捨て石」であった。つまり「本土のために、お国のために死ね」ということだった。そのために戦闘員でない普通の市民を巻き込んだ市街戦が行われ、多くの市民がなくなった。沖縄戦の死者は約20万人だと言われるが、そのうちの約半分は普通の市民である。「お国のために」「日本本土を守るために」沖縄市民は10万人も火炎放射器で焼かれ、銃弾爆弾で殺されたのである。
そのことを、電車の中で「お国のために沖縄に基地は絶対に必要なんだ」と会話するサラリーマンは、知っているのであろうか。本土のために沖縄は犠牲になって当然だと思っているのだろうか。
しかも、戦後沖縄は長い間米軍の基地として占領されつづけ、日本に復帰したのは27年後の1972年5月15日だった。さらに返還後も米軍基地はあり続け、日本の国土の0.6%にすぎない沖縄に、米軍専用施設の7割が集中している。沖縄の面積の約10%もが基地なのだ。
その上にさらに、名護市辺野古への新たに基地をつくろうとしている。
政府は新たに増設するのではない、危険な普天間飛行場をやめるためだ、と言い張っている。
まるで、沖縄市民のために移設するのだという口吻である。
普天間の危険除去は当たり前、そのつけを同じ沖縄が背負うのでは、県民としては何の軽減にも解消にもなっていない。右のものを左に遷しただけだ。
いや、中国に対抗するためには、地政学的に沖縄でなければだめなんだ、と言われている。声高に中国敵視、とは言えないからもぐもぐと言っている。
でも、戦前の戦いなら、航空機の航続距離3000キロなどと言っていたから、グアムも沖縄も本土防衛に必要だったのかもしれないが、いまはミサイルが宇宙空間を飛ぶ時代だ。北朝鮮がミサイルを打ち上げても、日本は何の手立てもなく上空を通過するにまかせ、地下に隠れろなどと官邸がたわけたことを言う時代だ。地球の裏側までもミサイルは届く。日本にとっては何の防衛線もなく、地政学的など意味ない、地政学的に日本に基地が必要なのは米国だ、米国防衛のためだと言う専門家もいる。
はっきり言って、沖縄に基地はいらない。日本国として沖縄に基地がある必要はない。ましてお国を守るためなどと犠牲を強いる日本人は、人の痛み、苦しみがわからないのだろう。そんな人は本当に同じ日本国民だろうか、と思わざるを得ない。
                 
        

認知症になりたくなかったら歩きましょう   小榑雅章

2019/ 01/ 29
                 
65歳以上の高齢者の4人に1人は、軽度認知障害(MCI)もしくは認知症だと言われている。
あなたは大丈夫ですか?と知人に聞いたら、「私は70歳だが、まだまだ現役だ。自分はからだも元気だし頭もしっかりしている」と知人に叱られたが、自分ではそう思っていても、現実にはMCIのことも少なくない。
認知症というのは、ある日を境に、ハイ、今日から認知症になりました、とはならない。徐々に少しずつ忘れっぽくなり、ボケていく。だから、自覚は乏しい。徐々にボケるのを、いろいろ対策して進行を遅らせたり、とどまらせたりすることが肝要なのだ。
軽度認知障害(MCI)というのは、このボケ進行中の「認知症の一歩手前」と言われる状態で、認知症のような記憶障害がまだ軽く、自立した生活ができると、いう状態をいう。だから、この時期に適切な治療をしなければならない。
これまでのように治療をすることなしに歳を重ねると、80歳代の後半には2人に1人が認知症になるという。
じつは身近な肉親が認知症になった。昔のことは覚えているが、いま話したことは1分後にはもう忘れている。もちろん今朝食べたものもわからないし、食事をしたかしなかったかも覚えていない。お湯を沸かそうとガスに火をつけたことも忘れるから、ガスは使えない。料理はできないから、一人暮らしはできない。一人で出かけたら、家に戻れないので外出もできない。周りに大変な負担をかけることになる。みんなに迷惑をかけるのだが、迷惑かどうかもわからなくなる。こういうことは、よく言われていることだから、これまでもわかっていたつもりだったが、現実は想像以上だ。ここまで進行してしまうと、もう打つ手がない。
他人ごとではない。自分もその年齢に達しているのだから、恐怖である。何としてでも、認知症になりたくない、と切実に思う。
どうしたらいいのか。
Anders Hansenという脳科学者が, 2016年に発表した BRAIN — How To Train Your Brain According To The Best According To The Best And Latest Neuroscienceという本に、認知症にならないためには何をしたらいいのかが明確に書かれている。(このAnders Hansen先生は、精神科医であり、ノーベル生理学・医学賞を選定する「カロリンスカ研究所」のリサーチャー)
Hansen先生の結論は「脳の老化を予防するなら、『運動すること』だ。毎日か、少なくとも週に5回、20〜30分歩こう。また週に3回、20分ランニングをしよう。それと同等の運動強度であれば、水泳やサイクリングでもよい。」「最新の医療技術であるMRIによって導き出され、私たちが見直したものそれは、なんということはない。ただ歩くことだった。」「私たちの脳は動くためにできている。」
「重要なポイントは、心拍数を増やすことだ。そして有酸素運動を中心に行おう。新しい細胞や血管が形成されたり、領域同士の結合が強化されたりするまでには、ある程度の期間が必要だ。週に数回の運動を半年ほど続ければ、目覚ましい変化を実感することだろう。」

運動が大切だ、1日8000歩歩きなさい、ということは、Hansen先生だけでなく、これまでもよく言われてきたことだが、なぜ運動や歩行が脳と関連するのだろうか、疑問だった。この論文で、私が気になったのが「私たちの脳は動くためにできている」という一文である。そしてその説明を読んで、なるほどと納得した。以下転載する。
⚪ 「脳が急激に成長を始めたのは、わずか100万年ほど前だ。」〜「そして、たったの10万年前に、私たちの祖先の思考能力は飛躍的に進歩し—この時期は一般的に「認知革命」と呼ばれる—これがヒトという種を大きく変えた。」〜「蹴落としたライバルは6種。そして現在生き残っているのは、私たち「ホモ・サピエンス」のみだ。」〜「勝因として考えられることは、脳の外層である大脳皮質の違いだ。」
⚪ 「基本的には、移動する生物だけ脳がある。」〜「地球上にはじめて現れた脳細胞の最も大切な仕事はその生物を移動させる事だったのである。」〜「人類も同じだ。」〜「体を動かさなければ、そのためにできている脳も機能できないのである。」〜「生物学的には、私たちの脳と身体は今もサバンナにいる。私たちは本来、狩猟採集民なのである。」
⚪ 「最新の医療技術であるMRIによって導き出され、私たちが見直したものそれは、なんということはない。ただ「運動すること」だった。」〜「私の脳は動くためにできている。」
(日本ポジティブサイコロジー医学会 鏑木淳一、柘野雅之両先生執筆記事による)



                 
        

星野進保さん1周忌と「土地・人民 日本の歴史」

2019/ 01/ 15
                 
昨年の1月16日に、向社会性研究所代表の星野進保さんが亡くなられて、明日で1年になります。
星野さんは昭和8年(1933年)東京都生まれ。昭和33年(1958年)東京大学経済学部を卒業して、経済企画庁(現内閣府)に入り、国土庁計画・調整局長、経済企画庁総合計画局長、調整局長、経済企画事務次官を歴任して退官。
この経歴を見ていただければわかるように、戦後日本の高度成長期の国家計画にずっとかかわってこられました。その後、総合研究開発機構(NIRA)理事長を10年勤め、2000年4月にこの向社会性研究所を創めました。それから18年間、向社会性研究所代表として活動を続けてこられましたが、昨年亡くなられました。

このブログ『向社会性研究所へようこそ』を始めたのは2006年の5月です。星野さんも、時に応じて執筆をしてきましたが、それから10年後、亡くなる2年前の2016年の年初から「土地・人民 日本の歴史」という連載を始めました。
それは、どういう意図であったのか。自分として、わかったつもりでいたが、その根本の日本という国の成り立ちが、よくわかっていなかった。それで国家の発展について議論し、国家計画などえらそうなことをやってきたが、やはり足元のこと、根本のことを理解していないと、見えるものも見えない、道を過つ、といって勉強し直したのでした。
いま世界中で民主主義、資本主義の危機だと言われ、その存在価値、意義が問われています。まるでそれを見通したように、星野さんは3年前に「敗戦後の民主主義を無邪気に受容した一人として、この民主主義がより良い日本と世界を育くむことを祈ります」と思いをこめて「土地・人民 日本の歴史」という連載を始めたのでした。以来、3年にわたり連載を続けておりますが、この星野さんの残された著述は、今こそ大きな意味を持っていると思います。
日本国とは何か、どういう統治をされ、経緯を辿っててきたのか、土地はどういう意味を持ってきたか、明治維新はどんな時代だったのか、太平洋戦争はなぜ起こり、なぜ負けたのか、戦後の奇跡的な復興、経済成長はなぜできたのか、星野さんはすべて勉強し直してまとめました。
2016年1月1日に掲載した「土地・人民 日本の歴史」第1回目を再掲させていただきます。この機会に、この連載を遡ってお読みいただけたら幸いです。
             *****
あけましておめでとうございます。
今年は「土地・人民 日本の歴史」という文章を、すこしずつ区切って連載をさせていただこうと思います。
素人の下手な作文です。ご笑覧ください。ありがとうございます。

まえがき
70歳を過ぎて、公用・雑事が少なくなり、自由な時間が多くなりました。かねてより、この日の来るのを待ち望んでいました。
しかし、いざとなると何をやりたいのか、はたと困りました。囲碁・将棋・マージャンなどの趣味はなく、ピアノ・謡曲などの習い事もしていない。今さらはじめようとしてもおそすぎる。そこで、たまたま思い出したのが、日本の歴史をきちんと学んでいないことでした。若い頃には目の前にある戦後日本経済を、経済計画や全国総合開発計画などの作成を通じて勉強させてもらったり、1990年代には旧共産主義諸国のソ連や中国などの市場経済への移り変わりに熱中しましたが、日本国の始まりから敗戦後の日本の歴史をきちんと勉強したことはありませんでした。高校でも大学でも、社会人になっても。
今こそ、本邦日本の歴史にとりくんでみようと思いました。あり余る時間を使って自分なりの日本史をみつけて、冥土の土産にしようと思いました。
古事記、日本書紀から始めて津田左右吉先生やその他諸先達の労作を、どうまとめるかの目標もなく読ませていただきました。この作文のほとんどが諸先生方の労作の私の勝手なつぎはぎかも知れません。
そんな中で、日本国の歴史の原点になると明確に目に見える形で浮かんできたのが、壬申の乱で馬上天下をとった天武天皇、その「公地公民制」でした。日本国の土地も人民もすべて天皇の所有、支配下にはいって、「班田収受」の機構の下、日本は一体的に動きはじめました。日本の土地は、天武天皇の一人占めから始まり、敗戦後、人民が国家の主権者となってはじめて土地が個人個人の所有となったのです。
公地公民がくずれ、土地の実効支配を誰がしたか。土地境界の争いを武力で裁定する武家が登場しましたが、結局は戦国時代という土地争奪戦に呑みこまれていきました。戦国時代を凍結して平和な争いのない社会を担保した徳川家康とその幕府は、土地利用の平和維持の方式としては一つの選択だったと思います。
一方、明治維新は「公地公民」にはもどれませんでした。世界はすでに農業時代から産業革命の時代に移っていたからです。殖産興業には成功しても、精神構造は公地公民的だったのでしょう。それが、明治維新をとてつもない方向へゆがめ、その賞味期限を縮めたのだと思います。
敗戦後の民主主義を無邪気に受容した一人として、この民主主義がより良い日本と世界を育くむことを祈ります。

星野 進保 

                 
        

平成最後の新年参賀に行ってきた    小榑雅章

2019/ 01/ 05
                 
1月2日、宮中一般参賀に行ってきました。初めての経験です。
報道によれば、この日の参賀者は約15万4800人、平成に入って最多を記録したそうです。
私は、その多くの参賀者の中の一人として何時間も待ちながら、みんなどういう気持ちで、辛抱強くこの長い行列にならんでいるのだろうと、考えていました。
外国人も少なからず並んでおり、若い人も多かったので、皇室に対する興味や、めったに見ることのできない皇居に入れる機会待っていたというのは、行列の中の会話を漏れ聞いて、理解していました。
ただ、最も感じたのは、4月末に退位される天皇陛下と皇后さまが、この一般参賀で国民の前に姿を見せられるのは、この日が最後だから、ぜひそのお姿を見ておきたい、という参賀者が多かったように思います。
正直に言えば、私もその一人でした。今朝思い立って、やってきました。そして私は、遠くから、今の陛下に心からご苦労様でした。ありがとうございましたと申し上げました。

正月参賀
   *上の写真は、公式の一般参賀の光景。一段高いところから撮っている。
   下は、参賀者からの視線の写真。実際には、みんなが一斉にスマホやカメラ
    で写そうとするので、お立ち台の皇室のみなさんの姿は全く見えない。、

この日、陛下は「本年が少しでも多くの人々にとり、良い年となるよう願っています。年頭にあたり、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」とあいさつされました。
退位を前にして、この「我が国と世界の人々の安寧と幸せ」の中に、万感の思いを込められたのだと思います。正直に言って、若いときの私は、天皇制は無くなった方がいいと思っていたほど、皇室については厳しい考え方を持っていました。
前にも書きましたが、私の父は一銭五厘の赤紙で召集され、一兵卒としてフィリピンのレイテで戦死をしました。母親は、戦争未亡人として4人の子供を必死に育てました。そして、苦労して苦労して46歳の若さで死にました。その辛苦のあり様を、私は身をもってともに体験してきました。何でこんなに国民を苦しめるバカな戦争をしたのだ、父親を返してくれ、母親の苦労を返してくれと叫び出したかったです。
このバカな戦争は、天皇陛下の御名の下に行われました。若い私は、天皇の戦争責任を考えざるを得ませんでした。
その後、天皇の人間宣言が行われ、平和憲法ができ、象徴天皇になりましたが、昭和天皇には呼称が変わっても、戦争責任の声がついて回りました。
いまの天皇は1933年12月23日のお生まれで85歳。終戦の1945年8月には12歳です。戦争の責任とは関係ありません。
その天皇が、先月のお誕生日に語られた次のお言葉を粛然と受け止めておりました。

  ・・・沖縄は,先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め,私は皇后と共に11回訪問を重ね,その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り,戦後50年,60年,70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず,戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵どしています。そして,戦後60年にサイパン島を,戦後70年にパラオのペリリュー島を,更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。・・・

陛下が、最後まで「先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず」とくりかえし述べられていることに、私は深く敬意を持つ者であります。だからこそ、思い立って一般参賀に並び、遠くから両陛下のご努力にお礼を申し上げました。ほんとうにご苦労をしていただきました。ありがとうございました。